結局みんな自分の話を聞いてほしいんだ
人は自分がそこに存在することを、他の人に知っていてほしいと思う生き物なのだと思う。
他の人のnoteを眺めていて思う。皆が皆、自分の書いたものを読んでもらいたいと思っている。
その割に、自分という人間が、他の人の存在を認めることのできる認識者であるという自覚が薄い。(それがよくないという話ではないよ)
人によって違うのはもちろんなのだけれど、文章を書く人とというのは、受信することよりも発信することが好きな人が多いのではないかと思う。
反応が欲しいのではなく、ただ自分がそこにいるということを知ってもらうだけでいい。それだけを求めている人が多いように思う。数は問題ではなく、ただ、誰かが自分を知っているという状態に安心するのだと思う。
ほとんどの検索システム同様に、noteも、自分が訪れたページの傾向によって、表示される記事のタイプも変わってきてしまう。
だから、多分私のnoteというサイト内での他者認識は、私が他の人に対して望んでいることがかなりの部分混ざっているのだと思う。
私は存在を分かち合うということを、私自身が思っているよりも重視しているということなのだと思う。
誰にも知られず、自分の殻に籠って独りぼっちで生きてきた時期もあるから、自分にはそういう欲求は少ないのだと思っていたけれど、どうやらそういうわけではなさそうだ。
私は確かに、そこにその人が存在することを自分が知っていることや、自分という人間がそこに存在することを他の人が知っていることに、喜びと安心を感じている。
理解されていなくても、ただ「いる」ということが分かってもらえているだけでいい。自分もまた、相手のことを理解できなかったとしても、「いる」ということが分かっているだけでいい。
なんだか、そういう関係が、心地よく感じられるようになった。
私も大人になりつつあるということなのかもしれない。
若さゆえの鋭さみたいなものを捨てるつもりはないけれど、他の人との良好な関係を継続させる術は、心得ていた方がいいと思う。
なんだかんだ、私は多くのことを学ばせてもらったように思う。
一番安心したのは、noteを半年ほど続けていて、誰ひとり私のことを酷く傷つけようとしてくる人がいなかったことだ。
ほとんど本音で語っても、毒を吐いても、私を言葉で殴ろうとしてくる人がいなかったということ。
偶然そうであったとしても、この世の中のほとんどの人は、そんな意味のないことはしないということだけは確からしいから、それだけで、私はこの先、人間というものをそれほど恐れずに生きることができそうだ。
私は、病名こそつかないが、やはり一種の病気に近い状態にあったんだと思う。今も、まだそういう傾向にあるんだと思う。
私はゆっくりと、それを治している。症状は、快方に向かっている。
きっと、大丈夫。
私の人生はだんだんと白み始めている。
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