お墓はどこにでもある
私はあまりお墓参りをしない。両親が親戚付き合いあまり好きじゃないのもあるし、私は死後の魂のようなものを一切信じていないから、親しかった誰かの骨や石に祈るようなことにも若干の抵抗があるのだ。
だけれど、墓地の空気感は好きだ。それだけたくさんの人の骨があるということ、それだけたくさんの人生があったということ、私もいつかその中のひとつになるということが、なんだかとても素晴らしいことであるかのように思えるのだ。
きっとほとんどの人は私に同意してくれないだろうけど、でも私は確かにそう思っている。
お盆じゃなくても、私は天気のいい日の昼間(さすがに天気の悪い日や夜は、幽霊ではなく暴漢に襲われそうなので……)近所にある墓地をめぐることがある。
同じ墓地内にある墓でも、キチンと手入れされている墓と、まったくそうでない墓がある。墓が倒れてしまったり、ゴミだらけになっている墓もある。私はそういう墓を見ると「どうか安らかに」という気持ちが自然と湧いてきて、そこに誰かの魂があると信じているわけではないけれど、手を合わせて祈りたくなる。
どうか、安らかであってほしい。どうか、人を恨まないであげてほしい。
お墓の文化は長い。たとえ当時たくさんの人に愛され、ていねいに管理されていたとしても、百年二百年もたてば打ち捨てられる。
山の中にある墓地は、きっと相当昔からあるものだと思う。そもそも人が入れないくらい竹林に道がさえぎられてしまっている場所にも、お墓があったりする。雨か風か、刻まれた字もほとんど読めなくなっているようなお墓もある。
諸行無常、という言葉が頭に浮かぶ。千年。世界は、それほど決定的に形を変えていないのかもしれない。
死者は好きだ。彼らは私を害さない。それどころか、優しく私にその存在を語りかけてくれる。
私は、彼らが生きていたことを肌で感じる。実感をもって理解する。いつか自分も、彼らのように、無名の死者のうちのひとりになる。
それはもうすでにひとつ決定された真理であり、私の肉体が行き着く先である。それが私を、これ以上ないほどに安心させる。
死は人を裏切らない。どんなに私が狂っても、道に迷っても、悲しみに喘いでいても、最後には死ぬことができる。皆と同じ、この地球という大きな墓の中に入ることができる。
そして、たとえ私の魂が消え去ってしまったあとでも、私という存在があったということを、他の誰かが感じて、そこで安心を得ることができる。
今の私のように「いつか私も、あなた方のうちのひとりになります。それを、喜ばしく思います。それを、ひとつの名誉だと思います」とつぶやくことができる。
その喜びに、安心に、私の死体も貢献できる。
もっといえば、私が今生きているということも、たくさんの亡骸のおかげであるということが、私を深い感動と喜びにいざなってくれる。
私たちはたくさんの人の死の先で生きている。名も知らない、それでも懸命に生きた人たちが踏み固めた道を歩いている。その実感は、言葉にできないほど幸せな実感だ。
私は墓地が好きだ。時間を感じさせてくれるものが好きだ。
人間の営みを感じさせるものが好きだ。人間の想いが伝わってくるものが好きだ。
時間は繋がっている。世界には歴史がある。この時代にも、この時代なりの役割がある。
信ずるべきことは、死後の世界ではなく、この世界がちゃんと続いていくということ。この世界が、愛すべき世界であるということ。
どうか安らかに。
私が死ぬ時も、世界が安らかでありますように。
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