政治には無関心なのだが

 思いついたことは全部やってみることにしている。
 今回は、一人称を「私」の代わりに「俺」を使って、自分自身の文章を書いてみる。それによって、私……俺の文章に何か変化が起こるか、試してみる。

 俺はこれまで何度か言ってきたように、政治に対して無力であるし、無関心である。そうであるべきだと、自らに定めている。関わってもろくなことにはならないから、それについて深く悩み過ぎないように己に命じているのだ。

 だが俺の身近なところには「政治に深い関心を持っている人」がけっこういる。そういう人たちと、意見を交わすことが時々あるのだが、その場合奇妙なことが引き起こされる。
 俺は他者に対して「政治には興味も関心もなく、国内のことも国外のこともさっぱり知らない」という前提をもとに話している。それに対して、その政治に関心を持っている他者自身は「私は政治についてちゃんと考えているし、調べている。だから私は、政治について他の人より少しばかりよく知っている」という前提をもとに話している。
 本来こういう関係ならば、俺が一方的にその人間から何かを教えてもらうことになりそうなのだが、実際に話してみると、相手が俺の意見を聞くことばかりになるのだ。俺自身が意見を言いたがる性格なのもあると思うが、それ以上に政治にまつわる知識が、関心のある彼らより、関心のない俺の方が多い、ということでもあるようなのだ。

 もちろんそれで人を見下すつもりはない。そのような奇妙なことが起こってしまう理由は、おそらく俺にとっての「関心・興味」と彼らにとっての「関心・興味」との間に何らかのズレが生じているからだと思う。

 それとは別に「知っている」ということに関するハードルの違いもあるかもしれない。俺は政治というものが自分の生活に密接に関わっていることを実感をもって幼いころから理解していたし、それについて調べたりすることに一切抵抗がなく、日常的に行っていることだった。新聞もテレビニュースもあまり見ない性格だったが、人から聞いた断片的な話を結び合わせてぼんやりとした像を結んでおき、それについてあとでインターネット検索等を用い、調べて修正する、というような知的な作業をせずにいられないような人間だった。不確かな情報を不確かなまま取り扱うのに、小さな嫌悪感を抱くタイプの人間だったのだ。(もちろん、どうあがいても自分の扱う情報が不確かであることは自覚している)(「確かであること」と「不確かであること」は真っ二つに両断されているわけではなく、あくまで程度の問題であり、許容の範囲がそれぞれの人間によって異なるのだと思われる。私はいわゆる「一般的な人々」より不確かさに対して許容範囲が狭く、その道の専門家に対しては、許容範囲が広い、と思われる)

 そんな人間であるから、結果的に話を始めた相手よりも自分の方がそれについての知識や理解が深いということが露呈することが多くなってしまうのだ。そういう時に、俺は失礼ながら、相手を自分の態度によって侮辱してしまったかのような感覚にとらわれることがある。
 実際、相手を恥ずかしがらせてしまうこともある。それもそうだ。相手の立場からすれば「彼女は知らないだろう」とたかを括っていた相手が、自分以上の知識を持っていたのだから、それは自分が自分の知識を過剰評価していたことを自分自身に対して露呈してしまうということに他ならない。自分の愚かさや無知さを、どうしようもなく自覚させられてしまうというわけだ。

 でもそれは、その人自身の問題であって、私の問題ではないような気もする。
 実際のところ私は政治やビジネス、法律等には全然関心がないし、それどころか、できる限りそういうことを考える時間を減らしたいと思っている。疲れるのだ、そういう話は。とても難しくて、だんだん腹立たしくもなってくる。自分の思い通りにならないことを考えるのは、最小限にとどめておきたい。自分のコントロール可能な範囲で、思考を進めていきたい。そう思うのは、おかしいことではないと思う。
 もちろん、そうやって自分の考える範囲を自分で狭め続けるのはあまりよくないから、考えようと思ったときはちゃんと考えるようにしているし、調べようと思ったときはちゃんと調べることにしている。

 社会の流れのことはよくわからない。最新のニュースもよく知らない。でも、それを知りたいと思ったときは、自分が嫌にならない範囲で、情報を選ばず手に入れていたい。

 私は政治に無関心である。私じゃなかった。俺は政治に無関心である。だが、広範な知的好奇心を持っている。だから、その全方位的な知的好奇心の中に、政治などの問題も多少含まれているのだ。

 俺は政治に対して無知だ。何も知らないし、何も分からない。分からないままでいいと思っている。
 だが俺は、なぜか「知りたい」「知ろう」という人間よりもそれについて知っていることが多い。
 もしかしたら、自分が知りたくないことを知るということに一切抵抗がないことにその要因があるのかもしれない。

 反対意見に目を通すということを習慣づけていること。それが一種の……知識の豊富さ及び、知識への無関心すら生んでいるかもしれない。

 政治というのは、知れば知るほど素人が考えたところでどうにかなる問題ではないことだけはよく分かってしまう。
 それについて本気で取り組むのならば、それ相応の覚悟が必要であり、そうでないなら、一種の娯楽的なものとして捉えなくてはならない。私は政治に対して不真面目である。無関心である。無知である。無知でしかいられないのである。
 それは政治についてある程度考えたがゆえの結論である。


あとがき

 一人称……書きづらいね。「俺」って、なんかさ、馬鹿っぽい感じするよね。でも自己主張強い感じは、あんまり嫌いじゃない。読み直してみたけど、いつもと文章の感じはあんまり変わらないかな。ちょっと小難しい印象はあるかも。よくわかんね。
 攻撃的な感じが増すかなって思ったけど、全然そんなことはない。ちゃんと私らしさが残ってる。んー。面白いね。

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