曖昧なままでいることを決めたのだけれど
最近自分の文章を読んでいてよく思う。
「多分」「たいてい」「大まかには」「ほとんど」という単語が頻出しているのだ。
それは自信のなさというより、むしろ表現の正確さのために用いられている。私はけっこう断定表現を使うから、文章から臆病さはあまり感じられない。
(この「あまり」も曖昧な表現である。なぜこれを置くかと聞かれたら「私の文章から臆病さを感じることは、少ないながらも確かに『ある』からだ。『ある』ものを『ない』とは言えない。だから「あまり」という風にぼかすことで、誠実さを保とうとするのだ)
量的な問題はやはり区別しなくてはならない。
「真っ黒」と「ほとんど黒」は別のものとして取り扱わなくてはならない。
「新品」と「洗って綺麗になったから新品みたい」は別のものとして取り扱わなくてはならない。
もし大多数がその二つを区別しなかったとしても、認識と論理に誠実な者として、それは区別しなくてはならない。
だから私は、曖昧な表現を好む。細かい説明は冗長だし、言葉のリズムが崩れて文章自体が死んでいく感じがするから、比喩で語れるなら比喩で語る。
その結果伝わらなくなっても、それは読んでいる人の読解力の問題であると、私は決めつける。
私が本を読んでてうまく理解できないときは、書いている人の技量の問題ではなく、私自身の体調や理解力、前提知識の有無の問題であるのと同じだ。
諦めるにしても、しばらくして成長してから読み直そうと思う方がいい。実際それで、あとで読んでみたらそれなりに理解できたということもある。
何でもかんでも自分のせいにするのはおかしいが、人のせいだと決めつけて何もしないのもおかしい。大抵の問題は誰のせいでもないし、重要なのはいつも「それを私はどのように扱うべきか」という未来に向けた行動の指針だ。
過去の解釈や現状の理解は、曖昧なままでいい。むしろ、曖昧なままの方が考えやすかったり、結論を出しやすいことも多い。ただし、行動指針はできるだけはっきりと定めた方がいい。
これは私の課題だ。私は現状理解や解釈は得意だが、自らの行動をコントロールするのは苦手としている。
私に足りないのは、そのメリハリなのかもしれない。曖昧に認識し、断固として行動する。
難しいことだが、そういう人間になれるよう努力してみよう。