自分という存在が誰かの常識を打ち破る瞬間
私は人を意図せず困惑させることが多い。
見たことも聞いたこともないことに触れた時、どのような反応をするかはその人自身の思考回路や行動指針によって違う。よく見かける例を列挙してみよう。
1.無理やり型に当てはめて考えることで、安心しようとする。
2.困惑を悟られないように、いつも通りの自分を演じる。
3.様子見を決め込む。
4.すぐさま距離を置こうとする。
5.興味津々、それをもっと理解しようと努める。
6.認識の外に置こうとする。
基本、現代人は、新しいものに触れることや驚くことに慣れているため、いちいち大げさな反応は取らない。様子見をする人が大多数だと思う。
だが賢い人の何割かは、自分が驚いたときは素直にそれを表現する方がコミュニケーションがうまくいくことを理解しているため、あえて自分が感じたことを大げさに表現することがある。(優秀だけど怒りっぽい人が一定数いるのはそのためだと私は思っている。彼らは自覚してやっているのだ)
私は自分が誰かにとって「意味不明」であることをよく自覚する。まだ人生経験の浅い同級生が私のような存在を見て驚くことはないが(学生にとって、見慣れぬものは当たり前であり、基本はじろじろ見て観察するだけだ)、長い間を生きてきた大人の方は、少し変わった子供のことで大げさに驚いたり、困惑したりする。
つまり自分の長い人生経験で培ってきたことが全く当てはまらない人間がまだ存在していたということに、驚くのである。自分の知らないものが新しく自分の人生経験の一部に加わることに、驚くのである。
子供より、大人の考えていることの方が単純であることが多い。彼らの考えていることはとても分かりやすく、分かりやすいからこそ、コミュニケーションがスムーズにできるし、お互い楽しむこともできる。それはもちろん、心の奥深くまでわかるということではなく、相手に見せたい非言語的な部分を示す技術を、大人は身に着けているから、言い換えれば「自分の中の比較的浅い部分を分かりやすく表現すること」が大人は得意なのである。
大人びた子供はそれを理解して見様見真似でやっていることが多いが、大人のようにそれが出来ているかというと、そうでないときが多い。どこかいびつというか……おそらく本人の深層にある部分が意図せず漏れているからもしれない。大人のそれは、はっきりと「その人だ」と示されるのに対して、子供のそれは「私はこうです」と自ら示しているような印象がある。大人の方が自然体なのである。
人間、意識的にせよ無意識的にせよ、他者というものを分類して捉える傾向にある。「この人はこういうタイプ」「あの人はああいうタイプ」と、判断して接している。だからこそ「分類不能な人」というのは、魅力的であると同時に、恐怖の対象でもあるのだ。なぜなら、自分の言ったことややったことによって、その人がどのような反応をするか予測がつかないから。(外国人と関わる機会の少ない日本人は特に、そのような「分類不能」に触れる機会が少ないせいで、そういう人たちと関わるのが苦手な傾向にある)
私がよく聞かれるのは、こういうことだ。
「海外に住んでたことありますか?」
「ご両親は何をされている方なんですか?」
「一か月でどれくらい本読むんですか?」
「どこでそういう話を聞いてくるんですか?」
そう聞いてくる彼らはおそらく、私が意味不明であることの正当な理由を探そうとしているのだと思う。
おそらく私が「三年ほどドイツに住んでたことがあります」「両親は二人とも別々の事業をやってます」「一か月でニ十冊は読みますね」「父の仕事の関係で、色んな立場の人が家に来るんです」などと言えば、彼らは「なるほど」と言いながら安心するのだと思う。
でも実際は、そんな都合のいい事実があるわけじゃない。海外旅行は結構行ったが、外国語は英語すらろくにしゃべれないし、両親の職業も特別なものじゃない。読書量だって大したことはない。ただ同じ本を何度も繰り返し読み続けているだけ。人と話をする機会は多いけれど、いつも変わった話を聞けるわけじゃない。
私は自分のことを普通だと思って他者と接しているけれど、私の普通と相手の普通はまともに一致しない。だからこそ私は「不思議な子だ」と思われる。
本来「不思議な子」は自分が不思議だと思われてることを自覚していないか、自覚していたとしてもそれを細かく追及して「なぜか」ということに答えを出そうとしたりはしない。
それも、男性であればそういう人がいてもおかしくないと彼らは思っているのだろうが、私は女だ。女でありながら、このような特異な性質を持って生きる人間は、たいていの人間にとって「常識外」のことのようだ。
しかも、私は常識の外側にいながら、常識というものを理解して話すことができる。相手の常識に合わせて話すことができる。相手の常識に合わせながら、自分の意見を自信をもって述べることができる。
さらに相手にとって「理解不能」な人間に見える。でも私はそう思われたくてそうしているのではなくて、そうするしかないからそうしているのだ。その方が私は心地いいし、人との関係も良好になる。私は自分自身でいるということが好きだし、私が自分自身でいると、ほぼ必ず「変なやつ」扱いされる。それも、よし。私は自分が他から見て「変なやつ」であることを自覚しているし、それを受け入れている。
それだけじゃない。私は誰かの「この子はどうせこういう子」という偏見を、自分の発言や態度によって強制的に変更させるのが好きだ。人の予想が外れた時の間抜けな顔といったら! でも、そういう人間は自分の予想が外れても、その予想が外れたという事実をすぐさま忘れて初めから分かっていたかのような話し方をすることが多い。後知恵バイアスというやつ。でもそれくらいは大目に見てやろう。私と彼とでは、明らかに自分自身への理解度に差があるのだ。
私、人の多いところは嫌いだけど、誰かと話すのは好きだな。自分が新しく知らない人の気持ちを知れるのも驚きがあって楽しいし、自分の考えで相手を驚かせたり、相手の眠っている思考を表出させるのも、楽しい。
対話において一番楽しいのは、相手が相手自身の口から無意識的にこぼれた言葉に驚いた瞬間だ。
「あれ、私、今、なんて言った?」
コミュニケーションにおいて、あの瞬間ほど愉快な瞬間はない。相手自身がまだ気づいていないその人自身の気持ちに気づいた瞬間は、綺麗だ。誰かの、まっすぐな自己愛が育つ瞬間は、見てて気持ちがいい。
自分自身の、自分自身に対する偏見を壊すことは、きっと楽しいことだ。
私は自分自身の「常識」を、自分自身の行動によって打ち破っていたい。そしてできれば、それを他者にも要求していたい。私が想像できないような美しさや豊かさを、見せてほしい。それで、私に嫉妬させてほしい。世界はそのようにあるべきだと私は思う。
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