自分が死んでも誰も困らない。私は社会やみんなが大嫌い。

 なんかの本で読んだのだと思うんだけど、時々頭をよぎる言葉がある。

「社会的に成功する人間は、良好な依存関係を構築することに長けている」と。

 自分がその組織や場に依存するのではなく、その組織や場を自分に依存させる、ということ。「この人がいなきゃ回らない」という状況を、自ら望んで作り出す能力に長けている、ということ。

 私は、この考えに吐き気を催すが、しかし正しい考えだと思う。そのような状況における組織の成果の大部分は、そのような人間の手中に収まることが多いから。(実際にどうかは問わない。重要なのは「その人がいなければ」と周囲に思わせていることなのだ)

 私は別にそれをずるいとは思わないし、おかしなことだとも思わない。だがそんな風にして成功している人たちとはできる限り関わりたくないし、そのような人間を安易に尊敬してしまう人間とも、関わりたくない。

 私は独立意識が妙なほど強い人間で、依存させようとしてくる人間とも、依存しようとしてくる人間とも、どうしても相いれないのだ。
 間違っているだとか、ダメだとか、そういうことを言っているわけではなくて、私がただそう感じてしまうだけ。善悪の問題ではないよ。優劣の問題でもない。良好な依存関係の中で生きていた方が、幸せでいられる人もいるだろうし、よりエネルギッシュに能力を使える人間もいると思う。
 たまたま私がそうじゃないだけだから、うん、それだけ。
 それに、この社会は相互的な依存関係の繋がりによって発展してきたわけだし、私自身その恩恵をもろに受けて育ってきたから、それ自体はどれだけ不快でも否定することはできないのだ。
 ある意味、たとえどんなに母親のことが嫌いでも、自分が母親から生まれてきた者である以上、母親の人生を否定することはできないのに似ている。そういう人は、母とはできるだけ関わらずに生きていたいと思うだけである。(あくまでたとえ話で、私は私のお母さんのこと好きだけどね)

 ともあれ私にとって「この人がいないと困る」というような組織の中で動くのは、息苦しくなってしまうし、不安にもなってしまう。だってその人が病気になったり、何か気が変わってその組織を壊そうと思ったら、それだけで自分のやろうとしていることや、やりたかったことは、全部ひっくり返ってしまうのだから。そういう不安を感じながら生きていくのは、私には耐えがたい。
 逆に、私自身が「この人がいないと困る」といわれるような人物になるとしても、好ましいとは思えない。自由にできるのは楽しいし、求められるのも嬉しいかもしれないが、それ以上に、さっき自分が言ったような不安を抱えた人間に囲まれ「やめませんよね?」とか「責任持ってくれますよね?」みたいな目を向けられ続けると、私は多分、吐き気でろくに動けなくなる。想像するだけで頭の中が、乗り物酔いした時のような気分になる。私は他人から何かを押し付けられたり、背負わされたりするのが死ぬほど嫌いなのだ。

 私がどちらの立場であっても、社会的な依存関係というのは、気分が悪い。首元にナイフを突きつけられているような感覚になる。
 他人から「お前はいつ破滅してもおかしくないんだぞ」と耳元で囁き続けられるような気持ちになる。

 人を頼るときは、それっきりでありたい。その人がいなくなっても、自分は困らないような関係でいたい。同じように、誰かの頼み事を聞くことがあっても、その時だけということにしておきたい。自分がいなくなっても、他の人が困らないような関係でいたい。

 私は私が死んだとき、悲しむ人が少なければいいと思う。
 「あぁ、やっと死んだのか。ご苦労さん」と思ってもらえるくらいでちょうどいい。
 時々みんなで私のやった馬鹿なことを思い出して、私のことを馬鹿にしてていてほしい。その時にはきっと、風になった私は、嬉しくなってみんなの頬を撫でて回ることだろう。
 私は死者になっても、誰かの楽しみや喜び、幸せの一部になっていたいのだ。死ねば傷つくこともないだろうから、その時は私のことを存分に悪く言って楽しんでくれたらそれでいい。
 私たちは認めたがらないけど、悪口を言うのは楽しいよ。自分自身や、自分の好きな人の悪口を聞くのは不快だけどね。自分が得をするためだったり、自分が気持ちよくなるためだけの悪口も不快だけどね。でもそうじゃなくて、みんなで楽しむためのネタとして、誰かを悪く言うのはやっぱり楽しいよ。好きな人のことをあえて悪く言ってみるのも、楽しい。どれだけ悪く言っても「好きだ」という気持ちが消えない感じが、心地いいから。
 私は、悪口自体を下品なことだとは思わないよ。やり方が丁寧で、配慮に満ちていたら、ね。
 私、人にひどいことを言われたり、めちゃくちゃな勘違いをされたら、反射的に苦しく思うし、悲しくもなっちゃうけど、嫌だとは思ってないんだよ。人生って、そんなもんだ。


 ともあれ、今、私が置かれている環境は、私が望んだ環境だ。私が死んでも、困る人は誰もいない。誰とも約束はしていないし、誰に対しても責任を負っていない。私の責任を、誰かに負わせたりもしていない。
 私は自分が自由であると感じている。いつ死んでも構わない存在であると感じている。それが、こんなにも心地よい。それこそが、生きることの本質であると、私にはそう思えてならない。

 きっと私の気持ちが分かる人は少ないと思う。それでいいのだ。私のような人間は、少ないからこそ、何の呵責もなくこの喜びを自分の中で味わえる。皆が私のようになってしまっては、世界は回らない。だからこそ、私のような人間は、大多数には理解されないし、理解されない方がいいのだ。
 皆、自分の人生を正しく歩んでる。悲惨な道を歩んでいる人のことも、悲惨な労働に従事している人のことも、成功しようともがきあがいている人も、破滅して死に至ってしまう人も、皆、そうでなくてはならないものとして、生き、死んでいった。私はそれを肯定しよう。
 私が幸福であるのは、私自身がそれを望んだからではなく、世界がそれを望んだからだ。私という存在は、皆が目指すべき存在じゃない。私の幸福は、私にだけ与えられたものでいい。そうでなくては、私の幸福はなくなってしまうから。私が気楽に生きていられるのは、毎日おいしいご飯を食べられるのは、たくさんの、別の幸福に向かって走っている人たちがいるから。私はその人たちのことを馬鹿にしたりはしない。一緒に走るのだけは絶対にごめんだから、目はつぶるし、耳と鼻はふさぐけれど、それは、みんなのことが嫌いだからそうするだけで、みんなのことを悪だとか、低劣だとか、そう思ってそうするわけじゃない。

 うん。私。
 「みんな」のおかげで生きているけど、「みんな」が嫌いなんだ。
 「社会」のおかげで生きているけど、「社会」が嫌いなんだ。

 嫌いだけど、それがないと私は生きていけないから、肯定するよ。「みんな」も「社会」も、そこに、そのように、存在すべきだ。
 でも私は嫌い。嫌いだから、できるだけ関わらないようにして生きる。

 最初からそれでよかったんだ。私は笑顔で「嫌い」が言える人間だ。
「君のことは大嫌いだけど、君がいてくれてよかったと思う」
 私はそれが言える人間なんだ。そうだ。私はそれでよかったんだ。

 私は私の「嫌い」を大切にしよう。嫌いなものは、否定せず、ただただ距離を取るようにしよう。今私がそうしているみたいに、冷静に眺めて、その存在も、私自身の意見も、両方とも肯定して、それでおしまいにしよう。それは決して矛盾していないから。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?