本当の喜びや本当の幸せはひとりきりじゃないと味わえない
なぜなのかは分からない。私はこの土日、最近距離を縮めた友達と誰もいない公園で汗を流し、くだらない話で大笑いして、言ってしまえば、心底幸せな二日間を過ごした。明日への不安感もなければ、嫌な出来事に心苦しめられることもなかった。もちろん慢性的な自己嫌悪やコントロール不能の追憶、息苦しさがなくなったわけじゃない。でもそれも含めて、充実した二日間だった。
それなのに、胸に広がるのは空しさなのだ。何もない「今」なのだ。たとえそれが直近のものだったとしても、それが終わってしまった以上「今」の私は空しいのだ。同時に、その二日で私が得たものは何もなかったのだ。もちろん、持つべきは友だと言えるし、そのような無意識的な経験が私を成長させるということも理解している。普段使わない筋肉がたくさん動いたから、体中がぴりぴりと痛むのも、その証拠だ。私は間違っていない。はずなのに、やはりどこか……「違う」という感じがするのだ。
「もしお前が望めば、この二日間と同じような日々を死ぬまでずっと続けることができるとしたら、どうする?」
そう問われたとき、私は即答するしかない。
「否。そんなのは人生じゃない。私の愛している人生じゃない!」
友達と心を交わし、汗を流して笑い転げ、何も考えずによく眠る。それだけの人生は、私にとってあまりにも……苦しみが足りない。意味が足りない。必死さが足りない。喜びも足りなければ、そうだ、幸福も足りない!
生きているだけでいいと言う人がいる。それだけで十分だと言う人がいる。それも間違ってはいけない。だがそれは、ミニマムだ。それは、去勢された愛玩動物に向けられるべき言葉だ。人間は、去勢された愛玩動物などではないし、私は、そうなるつもりもない。
人間も動物だから、同族で集まって騒ぐと安心するし、体をめいっぱい動かせばテンションも上がって気も大きくなる。ひとりぼっちだと不安になるし、自分が傷つくくらいなら人を傷つけた方がいいとも思っている。
人間は、動物的でなくなるべきだとは、私は思わない。人間の動物的な部分もあるべくしてあるのだから、それを認めたうえで、より人間らしく飾るべきなのだ。
私は欲張りだ。緩い幸せの中に浸っているのが好きじゃない。それなら、大きな音を立てて破滅していた方がいい。でも、一番いいのは、私だけの幸福を、私がひとりで見つけた幸福を、人生の肯定を、世界中の同胞たちと共有するという仕事だ。(私は、強い否定の先に、さらに強い肯定があるのだと思っている。肯定することが目的であるからこそ、私はその対象を強く否定する。人生には、あらゆる否定に打ち勝てる肯定が必要なのだ)
私はありふれた幸福のことをミニマムと捉える。幸福は高いものではなく、低いものだ。不幸の方が幸福よりも高級であり、ただ不幸であることよりも、その中で自分だけの幸福を見つけ、それを大切に抱くことが、より価値のあることなのだ。
その大前提として、それを味わう人間は、絶対的に「自分」でなくてはならない。ひとりでいなくてはならない。誰かと手っ取り早く共有しようとした瞬間、感情は濁り、失われていく。幸福とはしょせん感情に過ぎないのだ。
だが、感情に価値がないなどと誰が言った? 感情にこそ価値がある。感情に価値がないなどというのは、緩い感情しか感じたことのない人間だけだ。友情や愛情を、義理や人情を、どうして否定できるだろうか? そしてそのどれも「みんなで」抱く感情でも「相互に」抱く感情でもない。そう考えるのは、品性のない人間だけだ。
優れた感情は、たったひとりで感じつくすものである。大多数の同情や共感を拒むものである。同じものを感じたことのある人間にしか分からないものである。きわめて個人的なものである。そうであるべきなのだ。そうでなくてはならないのだ。
私たちは、伝わらないことをむしろ是としよう。
そして私たちが伝えるべきは、感情よりも愛と肯定だ。愛と肯定は、感情が産み出した意思だ。感情が冷めた後も続く、私たちの生きた行動指針だ。
私は、大きな理性と大きな感情を兼ね備えた人間でありたい。
私はひとりでいる時間を必要とする。孤独に喘ぐ時間を必要とする。私は不幸になる時間を必要とする。私は己に酔う時間を必要とする。
私はそういう人間なのだ。そう思うと、しっくりくるのだ。