面白いものを書きたい、と思う
難しい気持ちだと思う。これは理屈じゃなくて私の内側から勝手に湧き上がってくる衝動だから、それに従うも抗うも私の自由だし、それ自体に是非も善悪もないんだけどさ。
とりあえず冷静に、それがどういう感情なのか分析するのは意味があることだと思うんだ。それを文章化して人に見せるのも、そのつもりで書いたものって、それ特有の書き方になるから、それもそれで悪いことではないと思う。
ということで私が最近頻繁に感じてしまう「面白いものを書きたい」というのがどういう感情なのか細かく見ていこう。
〇面白いものを書きたい。なぜそう思うの?
・面白いものを書けば、人が喜んでくれる
・面白いものを書けば、面白い人間だと思われることができる
・自分を面白くない人間だと認めたくない
・面白いものを書くのは大変だけれどやりがいのあることだから、自分自身がそれに満足できる
・そもそも退屈なので、何かやりたいことを見つけたい
さて、それらが勘違いじゃないかひとつづつ確かめていこう。
・面白いものを書けば、人が喜んでくれる。
最近、私の気分は利他的な方向に向かっている。でもこれまで通り身近な人に親切心を配りまくっても、ただ意味もなく消耗し、うんざりするまでがひとつの流れで、そういうのに飽きてしまっているのはひとつの事実。だから、別の形で誰かの役に立っているという感覚を、私の体は欲しているのだと思う。それが正しいことかどうかは知らないが、私の体がそう思っていることは、認めよう。
・面白いものを書けば、面白い人間だと思われることができる
その関係性自体は間違っていないと思う。でも私自身が、自分を面白い人間だと思われていたいかというと、少々疑問。私は基本的にそれほど面白い人間ではないし(まったくつまらない人間でもないと思うが)勘違いされて何か期待されるようなことになると、気分は悪い。そういう意味で私は私自身でありたいし、その私自身を面白いと思うかどうかは、その私を見る人自身が感じることであって、私の問題ではない……のだが「私にとっての私」が面白いかどうかは結構重要で、実のところ最近自分自身に飽きてきた部分がある。もっと自分の知らない自分を描きたいな、と思いつつある。多分それが一番の原因なんじゃないかと思っている。
・自分を面白くない人間だと認めたくない
まぁこれについては、うん。私は確かに、面白くないと思われていると思うと、悲しい気持ちになる。でもどうしようもなく、私をつまらないと思う人は常にいるだろうし、面と向かって言われたこともあるし、別に認めたくないってことはあんまりないと思う。なんか自分が誰かにとって面白くないのは事実だし、でも別の誰かにとっては面白いと思われているのも事実だし、結局重要なのは「自分が自分にとって面白くない人間ではありたくない」ということなのだと思う。
・面白いものを書くのは大変だけれどやりがいのあることだから、自分自身がそれに満足できる
・そもそも退屈なので、何かやりたいことを見つけたい
ただ退屈ってだけだな。退屈だから満足感を求める。それは、そうだね。そうだねとしか言いようがない。
だいたい方向性が見えてきたね。やっぱりこういう分析には意味がある。
もし「私の体は面白いものを書きたがっている。よし、何が面白いとされているのか、ネットで検索して調べてみよう!」みたいに短絡的に動いていたら、私はきっとただ自分を見失うだけであったことだろう。(そういう経験は何度かある。立ち止まって考えることができているという点で、私は今自分の成長を感じている)
分析した結果、私は自分が何を求めているか理解することができたため、そのような「行き止まり」を避けることができた。
私のこの欲望は「誰かに面白いと思われたい」というものではなく「私自身が私自身にとってより面白い存在になりたい」というものだから、重要なのは自分では想像もつかないような自分に変身することなのだ。
私は自分の欲望を大切にする。それを丁寧に扱って、自分自身をより深くしていく。短期的な結果は求めない。まずは自分を成長させること。自分にできることを増やすこと。それは若者にとっての徳であり、最優先すべき事柄であると私は思う。社会は若者にすぐ結果を出させたがるが、それでもし結果が出たら、それ以上その若者は深くなろうとしなくなってしまうのではないか? まぁどうでもいいことだが、私は結果を求めないことにする。
私は自分をより複雑かつ高度な自分にしていきたい。
自分をもう少し掘り返してみよう。何もなくなったら、その時は時間を置いてみたり、知らない人と話してみたり、それかまぁ、アルバイトとか始めてみるのも悪くない。
自分がやりたくないと思わない範囲で、人生の経験を積むのもいい。
夏は終わってしまいそうだけれど、それならそれで秋が始まる。秋……憂鬱だなぁ。何というか、秋に対する自分の感覚を変えたい。ひっくり返したい。いつまでも秋に夕暮れのイメージを持ち続けるのは、つまらない。秋に新しい感動を見つけよう。憂愁とぼんやりとした趣以外の、はっきりとした何かを今年の秋、見つけよう。
うん。今期の目標は決まった。それとは別に、この秋で何かを書こう。
今年の私は色んな意味で真面目すぎた。とはいえ、今年はまだ四か月も残っている。去年は精神的な回復の年だった。今年の年越しは、元気よく迎えたし、いろいろな新しいことを始めた。noteをはじめたのはもちろん、小説をネットにあげはじめたのだって、今年が初だ。デジタルで漫画を描いたのも初めてだったし、ソフトを使って作曲をしたのも初めてだった。本を読む量は例年より少なかったけれど、今年はきっと、受け取りすぎた情報を上手に吐き出した年だったのかもしれない。
ある意味では、今年は『嘔吐の年』だった。
関係ないけど、今年の春にサルトルの『嘔吐』を読んだ。めっっっちゃつまらんかった。でもそのつまらなさみたいなもの自体が、なんだろう、ひとつの意図になってるわけだから、素直に感心したし、思う部分もあった。
そうだよね。あの作品すごくいいと思う。要は「つまらなさ」というもの自体が、ひとつの価値になることの証明というか、そうなんだよね。ある意味では「つまらなさ」の肯定であり「つまらなさ」を超えるための試行錯誤なわけだから、
そうだ。つまらないものを書こう。そうだ。それは確かに、意識してやったことがない。私は私自身の「つまらなさ」のことをよく知らない。もちろん、自分自身が書いたかつての文章を読んで「つまんな」と思うことは多いけれど、その文章を書いたときの私はそれを「つまらないものを書こう」として書いたわけではないのだから、それとは違うのだ。(私が書く「つまらない文章」は「面白いものを書こう」と私が意識したときに産まれることが多い。悲しき定めだ)
意識してつまらない文章を書く。それをやってみよう。「書いていてつまらないと思うこと」は多いので「書いていてつまらないようにしよう」ということではなく「読んでいてつまらないだろうな」と思うようなものを、あえて、楽しく書いてみよう。それが可能かどうか、試してみよう。
つまらなさ。きっとそれにも深みがある。今年の秋は、つまらなさを追求してみよう。
もしかしたらつまらなさの奥底には、まだ見たことのない「面白さ」が眠っているかもしれない。