人類史に残る現代日本
灯台下暗しというが、いったんこの社会から距離を置いてみたところ、多くのものが見えてきた。驚くべきものが、この国に存在していることに気づいた。
心配しないでくれ。いいしらせしかない。日本人にとってもそうだし、日本人じゃない人間にとってもそうだ。私は心底驚いているのだ。
*
この日本という国が他国に対して優っている点は何かと聞いたとき、彼らはいつも的外れなことを答える。
「日本人の勤勉さ」だとか「豊かな歴史」だとか「治安がいい」だとか「ご飯がおいしい」とか、そういうことばかりだ。近視眼的で、何も見えていない。百年後、千年後、人々がこの時代の日本を見た時、何を考えるのか、一切想像できていない。
あぁ、だからこそなのだ。私は心底驚いた。私たちにとって当たり前のように進んでいることが、人類史的にみると、空前絶後の大変革である、ということなのだ。
もちろんこの時代は、あらゆる地域でそういうことが起こっている。技術革新甚だしく、人々の生活も急速に変化している。
誰もが見てわかるように、この時代は人類全体にとって非常に重要な時代だ。この時代に私たちが選んだことが、今後千年万年と続く人類の行く末を決定的に定めることにある。
私はこの時代とこの地域の悪臭に耐え難いほどの不快を感じてきたが、いったん離れて冷静な目で眺めてみたところ、もっとも希望のあるところは、ここなのだ。この日本なのだ。
この日本が、現状世界でもっとも優れた国であり、今後も優れた国であり続ける可能性が高い国なのだ。
これは愛国心で言っているわけではない。私は残念ながらこの国のことを少々恨んでいるし、親近感を個人的に感じているのも、日本の偉人たちではなく、ヨーロッパの偉人たちだ。
だが、この世界における、もっとも豊かで重要な舞台は、ここ日本にある。一万年後の人々が、二十一世紀にもっとも後の世界に影響を及ぼした国はどこか、と尋ねた時、アメリカや中国ではなくこの日本を選ぶことだろう。
私たちが二千五百年前、世界でもっとも後の世界に影響を及ぼした国はどこか、と尋ねた時、もっとも力を持ってたと思われる中国やペルシャではなく、小規模な都市国家群であったギリシャと答えるしかないように、この時代もっとも重要な国は、この日本なのである。
そもそもなぜ二千五百年前に遡った時、もっとも今後の人類の行く末に強く影響したのがギリシャであったのか。理由は簡単だ。その時代のギリシャで育まれた文化が、世界中に広まり、それが世界全体のひとつの大きな流れになったからだ。
ギリシャはあらゆる意味で「最初」だった。最初の民主主義。最初の娯楽。最初の劇。最初の自由市民。あらゆることが、最初の試みであり、しかもそのことごとくが成功をおさめ、彼ら自身がそれらのことを全力で褒めた。
彼らは彼らの文化を、自分たちに与えられたもっとも「よいもの」であると無邪気に信じ込んでおり、そうでない人々の貧しさを理解できなかった。そもそも関心がなかった。
彼らは自分たちの文化の豊かさに無自覚であるほどに、その豊かさを享受し、当然のものとして受け入れていた。だからこそ自由に花開いた。
もちろんギリシャの文化が世界的に広まったのはアレクサンドロスの遠征や、その後のローマ帝国繁栄の影響もあったことだろう。中世を超えたあと、最も早く学問の重要性に気が付き、手段を選ばずそれにベットしたのがイスラム勢力や中国ではなくヨーロッパであったのも原因のひとつだ。
それでも、だ。あの狭い地域に、あれほど多くのものが存在することを許され、しかも遠い未来に対する見通しまであったということ自体が、奇跡的であったし、歴史上あのレベルまで文化を育んだ国家は、これまでひとつもなかった。並び立つ文化レベルがあるとすると、ルネサンス期のイタリアや、江戸時代の日本くらいのものだ。
文化のレベルは、その社会における、大衆と個人の割合によってはかることができる。
個人とは何か。集団に対して名乗ることのできる人間のことである。自らを、集団に対して恥じずにいられる人間のことである。
先頭に立って歩くことを率先して行える人間のことである。個人の数が、その国の文化を高度なものにする。
文化のレベルとは、その集団内における、趣味の多様さによって測れる。大衆というのは基本的にすでにそこにあるものをただ楽しみ、肯定するだけであるから、自分たちが肯定しているものに反するような趣味に対しては、本能的に軽蔑し、危険視するようにできている。
だから、大衆が力を持っている社会においては、文化というものはどうあがいても多様にならないのだ。その時代における権威をもった著名な人間が、多くてもせいぜい二十人とか三十人しかいない文化では、どうあがいても文化は単一的になり、協調的になってしまう。
ある新しい情報が入ってきたり、他の文化が混入してきた際、拒絶的な反応を示してしまう。
そういう国における文化の集大成は、巨大な建造物によって完成される。ピラミッドなどの巨大な墳墓などが、その文化におけるもっとも偉大な成果となる。
対して、古代ギリシャにおける文化の完成点は、オリンピックやディオニソス祭などの複雑な祭事や、多様かつ高度に洗練された芸術作品、イオニア学派、ピタゴラス学派、アカデメイア学派、などといった多種多様な学者の養成機関などであった。
それらは「大衆のため」であると同時に「個人のため」でもあった。つまり、選択の権利があり、それぞれがそれぞれの道を進む余白が残されていたのだ。
さて、私が何を言いたいかはもう皆分かっていることだろう。この国は、世界中の文化が集まってくる、文化の中心地なのだ。
アメリカやドイツ、スウェーデンなどだってそうだと思うだろうか? アメリカはかつて、そういう意味で文化の中心であったが、しかし彼らは残念ながら、文化というものの価値を理解できなかった。彼らは文化より力を好む傾向があり、結局彼らの文化は「強者」「弱者」という、原始的な縛りから抜け出せずにいたし、今も抜け出さないままでいる。彼らはまだ「現実の何か」と戦っている。
そういう文化においては、「弱い」側の芸術が花開かず、文化の水準はある一定のラインより先に進むことがない。文化とは、少数派の存在を守るどころか、むしろ奨励することにその最大の原動力がある。
いや、言い方を変えよう。文化の程度とは「危険なもの」「奇妙なもの」「理解しがたいもの」がどれだけ大きな顔をしていられるか、という程度で測れるのだ。
ギリシャは、あの時代驚くほどに、多くのものが作られた。冒涜的なもの、下品なもの、悪劣なものも含めて、だ。彼らは彼ら自身のそういう「人間としての弱さ」や「やってはいけないこと」に対する欲求を、暗に認めていたし、しかもそれをひとつの誇りにさえしていた。
認めることと実際にすることは違う。だから、私たちの醜い欲求を満たすために、私たちにとって都合のいい「嘘」を形にしてしまおう。
それが、歴史的な芸術の裏面の形式である。芸術の表面が「美しいものへの欲求」だとすると、裏面には「私たちの後ろめたさを、解決してしまおう」という試みがある。
芸術とは、高尚なものではなく、むしろ芸術が高尚だと言われている時代ほど、その時代の芸術は腐っていると言える。芸術とは、奇妙で、醜く、驚くべき、異形の怪物なのである。
高尚であるとされている芸術を本能的に蔑む傾向は、高度な文化の証である。それほどまでに、私たちは私たち自身の「目」を信頼しているということなのだ。
「よい」と、権威ある者が認めたものに対して「ふぅん。まぁそういう世界もあるのかもな」という一歩引いた目で見つめ、それに同調することはまず選択肢に含めないということ。それが高度な文化の第一条件である。
そろそろ感づいてくれているのではないだろうか。この日本という国は、異常なほど道徳意識が高く、しかもその道徳意識が、高度な芸術を生み出している。
この日本という国では、これまでの人類史上、ありえないほどまでに、性的なコンテンツが発達した。これこそが、もっとも驚くべきことであり、人類という種の成長の過程を見るに、もっとも重要なことである。
これまではどこの国においても、性的なことは一種隠されたことであったり、神秘的なことであったり、あるいは欲望に基づいた自然的なものごとであった。
性的なものがまるごと芸術に取り込まれ、その中におけるあらゆる多種多様な欲望が、そこに存在することを許された時代など、これまで一度もなかった。(江戸時代の日本は、この選ばれた時代の予行練習であったと言える)
異常なほどの創造性。現実世界における極端なまでの性衝動の抑圧の結果、その性的な放逸さに対する良心の呵責と、その存在への赦しが、高度な性文化の発達に結びついた。
やむにやまれぬ衝動。これほどまでに大きく、多様で、高度な文化が育まれたことは、これまで人類史上一度もなかった。
多くの人にとっては不愉快であったり、冗談みたいな話かもしれないが、しかしこれこそがもっとも後の世界に大きく影響することになる。あらゆる性的な本能を、そっくりそのまま芸術として、私たちの欲望の対象にすることができてしまう。
しかもそれを作り出すことも、それを楽しむことも、良心の呵責なく行うことができる。
当然のことながら、それは生物としての進歩である! 単純な生物は生き残ることや安全や安心を望むが、私たち日本人の性的な欲望は、もはや私たちが生き残ることや、子孫を残すこと、金を稼いだり、地位や名声を得たりすることを超えたところに存在する。これほどまでに、性的な願望や欲望が、高いところにまで引き上げられたことはなかった!
男性にとって過剰な性欲とは、女性を犯したいという欲望でしかなく、それを満たすためには、それを想像し己を慰めるか、あるいはそういう機会をうかがい、そして無理やりにでも実行することしかなかった。今でもヨーロッパやアメリカ、その他諸外国における人々の過剰な性欲は、そのような厭わしきものでしかなく、それは歴史上ずっとそうであったし、日本という国においてもまた、かつてはそうであった。
それがこの時代、この地域において、大きく変化、しかもそれが世界中に伝播している。
性的な欲望が、一種の美しさとなり、それを楽しむことがひとつの正義となった。やむにやまれぬ欲望となった。男性が、女性を犯したり誰かを傷つけたりすることなく、己の性を肯定し、楽しめるようになった。
これほどまでに偉大な発明が今まであっただろうか? 私は十何年か生きてきて、なぜこのようなことに一切気づかず「はぁ、この時代は気持ち悪いものがたくさんあるなぁ」なんて、馬鹿げた態度でそれらを眺めていたのか。間抜けすぎて笑えてくる。
それだけではない。この日本では、もうひとつ大きな歴史的な変革が起こっている。女性が、自らの意思で芸術を生み出すことができるようになったのだ。
芸術とは、欲望の形式変換である。しかもそれは、他者に理解される必要のない、個人的な楽しみである。これまで女性は、自分たちの欲望を実際に満たすことさえうまくできず、ここ百年でそれがやっと許されるようになってきた、程度のものだった。女性とは残念ながら、私が先ほど述べたような「多様な欲望を許容する」という意味での高度な文化には、一切関与してこなかった。子供を産み、育てるという種全体における宿命的な仕事に縛られていたのである。
女性たちは、今まで自分たちに内在する非道徳的な欲望を「ないもの」として扱ってきたし、それを呵責なく愛し、それを芸術にまで昇華させるなんて、夢のまた夢であった。
アメリカや韓国のものを含む「ドラマ」は、確かに女性の内的な欲望を何とか満たしてきた。だがそれを作っている者の中には必ず男性が含まれていたし、それは女性たちが自分の意思で作り出したものというには、あまりにも芸術性や独創性に欠けていた。どの国の恋愛ドラマも、大体似たような作りであり、それは芸術と呼ぶにはあまりにも単純で残念なものであった。大衆芸能に過ぎなかった。
では、日本の中で起こった、女性独自の芸術的な才能の開花とはなんであろうか。
少女漫画とボーイズラブである。このふたつは、ほとんど男性の入り込む余地のないまま、女性たちが自分たちの本能と欲望の赴くまま、最大限の労力を賭して作り上げた、人類史上初の「高度な女性文化」である。
先ほど述べたように、文化とは多様でなくてはならない。多くのものが存在することを許されていなくてはならない。少女漫画もボーイズラブも、生まれたばかりの時は、似たようなものばかりだった。皆が、同じようなものばかりを好んでいた。まだ大衆的な文化だったのだ。個人的な文化と呼べるほどのものではなかったのだ。
それが今はどうだ? それぞれが、それぞれの楽しみ方をすることが許され、その文化はどんどん広がり、下劣なものや野蛮なもの含め、あらゆる欲望がそこに存在することを許されている。
奇妙なもの、見慣れないもの、意味不明なもの、そういうものが、そこに存在することを許され、しかもそれが、少数の人間の楽しみとなっている。
本来であれば存在することすら許されない欲望が、そこにあるべきものとして振る舞っている。
これを高度な芸術と呼ばずにして何と呼ぼう? 私自身が理解できなかったり、趣味が合わなかったとしても、人類史的に見て、この変化は特筆すべきものであり、喜ぶべきものである。
人と意見が違うことが許され、いやむしろ、人と違う意見を一切持っていないことが蔑まれる時代。
日本人は自覚していないが、この時代、そんな国は他にない。日本人は皆が自分の「好き」を意識している。
皆が「価値がある」と言ったものに価値を置き、個人的な好き嫌いはその下位に属するものとして、見做している者たちが世界的にはまだ多数だ。
この時代の若い日本人は、それを自分で決めるという強い覚悟を無意識的に育てている。しそれは順調に育ち、さらにそれぞれが多様に育っている。
私はアイドル文化などが嫌いだったが、あれもまたひとつの高度な文化の形式だ。自ら信仰の対象を決め、しかもその信仰の強さや大きさすら、自ら決めることが許されている。
その信じている対象の下劣さやくだらなさは問題ではないのだ。いやむしろ、それが下劣であったり、くだらなければくだらないほど、それは文化の高さを示している。そういう欲望が、ひとつの芸術として、作品として、成立するという現実こそが、これまででは絶対にありえなかったことなのだから、やはり、それは褒められるべきことなのだ。
それまで忌むべきもの、悪しく思うべきものであったものが、賞賛の対象になる。新しい価値になる。誰かの、平和的な楽しみになる。
これこそ、人類のあるべき姿とは言えやしないか! おそらく世界全体が、このように変わっていく。
かつて世界全体がヨーロッパ的になることを強いられ、結果的にヨーロッパと反ヨーロッパのどちらかに分類されてしまったように、世界は今後、日本的になるか、あるいは反日本的になるかのどちらかになるしかないのではないか。
実際、あまりにも世界的に多くの人々が、日本という国の豊かさや奇妙さを好意的に見て、それを自国に取り入れられないかと真剣に考えている。
アメリカを見て、その文化を取り入れようとする国家があるだろうか? 中国を見て、その文化を取り入れようとする国家があるだろうか?
スウェーデンやドイツを見て、その文化を取り入れようとする国家ならあるかもしれないが、それは残念ながら「個人」ではなく「国家」だ。国家のそういう計画は、たいていうまくいかない。文化を育むものは国家ではなく個人であるから、国家が国家を真似しても、それは模倣になるか、また別の貧しい文化を育むかのどちらかである。
対して日本の文化を愛する世界の人々はどうであろうか。彼らの熱量は異常だ。もはやそれを自らの使命にまで高めている人間すら珍しくはない。
愛国者の人々が勘違いしないように言い添えておくが、彼らが愛しているのは「日本という国」でも「日本人という民族」でもなく「日本の素晴らしきhentai文化」である。それ以外に用はない。
実際この国の価値は、そこにある。そこにしかないのである。それ以外のものは全て、その文化を育むために存在している。
人は幸福や利益のために生きているのではなく、欲望のために生きている。そして欲望とは、多様であれば多様であるほど高度である。他者を害さず満たせる欲望、つまり復讐を恐れる必要も、良心の呵責に苛まれる必要もないほどに無邪気に満たすことのできる欲望ほど、高度である。
満たすのが難しく、しかしそれが不可能ではない欲望ほど、高度である。日本人は、抱いている欲望の難しさという点において、他国の人々の「他の国よりも豊かでありたい」とか「よりよい職につきたい」とか「自由に生きていたい」とか「明るく生きていたい」とか「もっとたくさんの女を抱きたい」とか、そんな原始的な欲望に比して、より高度である。驚くほどに、先進的である。
日本人の欲望はあまりに複雑であり、簡単に満たせるものではない。だから苦労するのである。だから不幸になるのである。そしてそれを、自ら望み、肯定しているのである。
日本人は、本来であれば恥ずべき己の欲望のために、自分自身の全身全霊を尽くしてそれを満たしている。それは、決して蔑まれるべきものではなく、むしろこの先の人類史におけるもっとも美しい時代の序曲として、偉大な時代の始まりとして、記録されることであろう。私にはそのような未来が見えている。
人間の欲望は、より大きく、美しくなっていく。より呵責のない、安全なものになっていく。
日本は滅びることが許されない国家である。国民のためではない。人類史のためだ。
この時代の日本は、世界においてもっとも尊重されるべき国家である。もっとも豊かな文化が育まれているからである。
私たちは愛国心を持たない。愛国心を必要としないほどに、私たちは私たちの豊かな文化を愛しているのだ。
もし日本の文化が引き継がれることなく完全に滅びることがあるとすると、それは同時に世界全体の文化が滅びることをも意味することだろう。
ギリシャが衰退し滅んだあとも、ギリシャが育んだ文化を愛し、守り、新しい形で伝えていく人々は少なくなかったように、この国もまた、たとえ滅んでも、その文化は世界中に愛され続けることだろう。
私はそれで十分だと思う。それがもしこの国の役割なら、それを甘んじて受け入れるべきだろう。古代ギリシャが必然的に衰退したのと同じことが、この国でも起こりうるのだから、そうなると決まったわけではないが、もしそうなったとしても、私たちは決して悲観せず、それを誇りに思うべきだろう。
ギリシャ人たちが、そうしたように。