遅延 〜 1 year

 投稿しそびれたものを供養します。今年の9月初頭、秋の体験版が頒布されていた頃に書いたものです。



 あー、夏が終わりそうだなあ。連日の猛暑は翳りを見せ始め、空に立ち上っていた雲は平べったく伸されつつある今日この頃。皆様、いかがお過ごしでしょうか。

 通勤・通学の時間帯に電車に乗れば、学生さんや社会人の方はいつも通りの日々を送り、勉学、労働、青春等々に勤しんでいるのが目に入る。
 四条大橋を通れば、観光客でごった返すいつもと変わらぬ情景の中に、鴨川等間隔の出現を見出せる。
 世間はまだ見ぬ秋風の涼風を心待ちにしながら、季節の波に乗って灼熱の夏を乗り越えんとしているのである。

 一方で大学生はどうか。ハッピースマイルな陽キャ大学生はいざ知らず、世間から隔絶され大学しか拠り所の無い者としては、夏はまだ折り返しである。あと1月足らずの休みを惰眠を貪りながら、気儘に過ごす。10月になってようやく極めて低次な社会生活を始めるのだ。

 「えー、ただいま孤立系大学生は社会性その他の影響でおおよそ1ヶ月の遅れて運行しております。社会人その他の皆様にはご迷惑をお掛けし、申し訳ございません。」

 社会にとっては何とも迷惑な話であるが、現代の社会はこのようなあぶれ者を許容しているからこそ成立しているのだ。誰だって時に道を外れることもあるだろう。許してくれたまえ。

 なお、孤立系とみなせるからと言って平衡状態に至っているわけではないし、エントロピーが保たれているわけでもない。生物の一生はそれが知覚するところの平衡状態に至るには短すぎる。そもそも生物は、肉体の存在によるエントロピーの減少量より、肉体及び精神の活動によるエントロピー増大量が凌駕しているが故に存在しえる得体の知れない塊だ。

 遅延しても許されるのは大学生であるからだろうか。如何なる形であろうと、モラトリアムとして儚き青春を謳歌することが認められているのは、私が持ちえた幸運というべきだ。

 え?手前は大学生であるのか?証明してみろって?


 「遅延証明ですか?学生証を以って代えさせていただきます。」(京都の大学の学生証をスッ…)

「あれ君、おかしいね。出生が2004年2月なのに入学が19年後の2023年4月になっているようだけれど。」

「あ、えっと...」

 ・・・
 そうでした。1ヶ月どころの遅延ではありませんでした。私は浪人。おおよそ1年の遅延を抱えているのであります。

 世界は1年の遅れを許してくれるのかしら。私が存在している以上、無限に存在する意志はそれを認めているのでしょう。

 しかし、私が抱えているのは教育制度上の位置における遅延だけではないのですわ。遅れた肉体に遅れた精神が宿っておりますの。



 私は文明以前に存在すると言ってもよい。昨今の優れた技術は私の手に余るという他ない。

 辺境の地にいるため、世間の流行というものは滅多にやってこない。やってきたとしても1年のオーダーで遅れていることが多い。


 思えば私は人と比べて種々の成長が遅かった。小中学校の時分はいつも背の順で前から3番目とかであった。
 精神的な発達も遅かった(今も20歳という年に見合った精神にはなっていないのだろう)。とりわけ言語の発達が遅く、あまりにも喋らない・反応しない人間であったという。今もその傾向は大いにあり、側から見るとどこか上の空に思われることも多いはず。多分別のことを考えているから放っておいてほしい。
 早生まれだということもあるだろうが、それだけではないだろう。要領の悪さや呑み込みの悪さ、行動の遅さ等は生来の気質のように思われる。
 何事につけても”〜 1年”で遅れているのである。


 だが、1年の遅れがなんだ。早熟だろうが晩成だろうがなんだろうが、最後に行くつくところはそう変わらないだろう。生き急いでもしょうがない。

 世界はこのような憐れな存在に対し、慈悲をもって許しを与えるべきです。




 私は未開の地ジパングの住民。東方に浮かびたるその孤島には、お日様の柔らかな微笑みとお月様の麗しい眼差しが降り注ぎ、星々は天にあってきらきらと光り輝く。
 格別に天の恩寵を受けたそんな世界にて、私は穴倉から顔をひょいと出しては、外の世界はなんて美しいのだろうと目を輝かせるのみ。時々外の眩しさにくらくらしながら、出来合いの果実に手を伸ばし、果肉を貪り果汁を啜る。後はほとんどの時を眠って過ごすのだ。

 美しい世界で万物と対話する人々は、寝てばかりいることを責めたり、外の素晴らしさを説いたりして、私に穴倉から出てくるよう催促するかもしれない。でも、眠れるひとを起こさないでおくれ。

私はもう少しおとぎの国の夢を見ていたい……



・9月5日 遅延中の京阪電車の車内から

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