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自衛隊基地の自販機は缶コーヒー1本90円
『忍田くん。お疲れ様。よかったらコーヒー飲む?』
コーヒーが好きと言った記憶はないが。同じ班の同期は訓練終わりにコーヒーを片手に私を隊舎から少し離れた喫煙所によく誘ってきた
同期と言えばまるで長い付き合いのように感じるが、当時私は新兵で所属していたのは教育部隊。入隊して最初に配属される。だからその同期とは長い付き合いではないくだいたい2週間くらい。まあ共同生活で寝食を共にしなければならないと考えれば、一般社会の2週間より深い付き合いになるかも知れないが
『ありがとう。もらうよ』
別に断ってもいいのだけどすでに彼の手に自動販売機で買った2本の缶コーヒーが握られてる手前、どうも気が引けた
『じゃあ喫煙所行こうか』
お互いタバコを吸わないし、べつに部屋で飲めばいいものを。なぜいちいち隊舎から離れた場所で飲むのか。
まあ理由はなんとなく分かるが…
彼はブラックを。私は微糖を。
遠慮がちに乾杯し、怪我もなく無事に1日が終わったことを祝った
『〇〇うざくない?年下のくせにさ』
さあ始まった…
たかが2週間の付き合いの他の同期の愚痴。本人いわく不満らしいが、よくまあ飽きずに毎日毎日話せるもんだ。
『ああいった協調性がないやつと共同生活しなきゃいけないなんて勘弁してほしいよ』
彼は高校卒業後にホストになりその後自衛隊に入隊した23歳。確かに顔は男前の部類に入るが、話は長く退屈だし、服の着こなしもどこかだらしない。本当にホストだったのだろうか。
『ほんの数ヶ月前まで高校だった奴らに社会の何が分かるんだ』
同じ部屋の高卒18歳入隊者の愚痴が多かった。全くの他人と共同生活だから生活態度に不満が出るのは仕方ない。だが彼の愚痴はなんというか周りが自分を敬ってくれないことに対する怒りからきている気がする。プライドが高いのだろう。
残念なことに彼はそのプライドに釣り合った能力を持っていなかった。
自衛隊生活始まって2週間経。高卒18歳組でバリバリ部活をやっていた組より体力がないのは仕方ないが、スタート地点は皆一緒のはずの敬礼や気をつけの動作が明らかに下手くそだった。
動作一つに節度がなく敬礼は手がそり曲がっていて節度がなくだらしなかった。
『忍田くんはよくあんな連中とニコニコ話せるよね』
残り3ヶ月の教育期間絶対に一緒にいなきゃいけないメンバーなのだからトゲトゲした態度なんて息苦しくなるだけでしょ
心の中でそう思ったが声には出さなかった。彼は自分の愚痴に意見を求めていないからだ。
一度、彼の砕けた敬礼を見て誰かが
『招き猫みたい』
と言ったことがある。それを聞いた周りは笑い、彼の不釣り合いなプライドに傷をつけた。その日の夜、怒りに震えた彼が就寝前に隊舎前で項垂れていたのを知っている
ぬるくなった缶コーヒーを片手に薄暗くなり始めた夕空を見上げた。
1本90円。格安のコーヒーをタダで呑める代わりに同期の愚痴に30分付き合う。
忙しい訓練の合間。ほんのひとときの休息の時間を彼の為に。
たった90円の価値しかない缶コーヒーと引き換えに。
私は腕時計をわざとらしく見て彼に言った
『そろそろ19時だしもう戻ろう。明日の準備をしなきゃ』
洗濯、アイロン、靴磨き、今日の復習と明日の予習。
就寝まで残り3時間で全てを終わらせなければならない。新兵には時間がない。
『もうそんな時間なのか。戻ろうか』
隊舎に戻る彼の後ろ姿を少し離れた距離で追いかけた。
彼と一緒にいた30分。
この貴重な時間で私は大好きなoasisや岩瀬敬吾の歌を5曲は聴けただろう。だが実際聞いたのはくたびれた元ホストの萎びた悲しい愚痴だった。
売店に行ってコーラとチョコレートを買い暖房の効いた部屋でのんびりできたかもしれない。だが実際は寒空の下で安い缶コーヒーを飲んだ。
なぜ私は彼と一緒にいるんだろう
部屋に戻ると同部屋の18歳が不思議そうに
『いつも2人でこの時間どこに行ってるんですか?』
と聞いてきた。
私たちは顔を見合わせて
『大人の話をしに行くんだよ』
そう言って笑った
18歳は一瞬不思議そうな顔をしてすぐに興味をうしなっていた。そして
『あの招き猫みたいな敬礼やって下さい』
邪険な笑顔で言った
私の隣にいる男は一瞬顔が引き攣り
『馬鹿やろう。大人をいじるんじよねえよ』
そして敬礼をした。必要以上に滑稽に。招き猫のように。
笑いながら。笑われながら
あの喫煙所の愚痴を言う姿とはかけ離れたなんとも情けない姿
私だけが知っていた。その笑顔の裏に怒りと悲しみが隠されていることを。
彼は自分のプライドの高さが能力に釣り合ってないことを自覚していた。足も遅い。覚えも悪い。今だに布団の畳み方も理解してない。周りに迷惑をかけていることも
ここで怒っても場の空気を乱すだけ。周りに貢献してないやつがそれをしてはならない。そう思っているのだろう。
皆悪いやつじゃない。ランニングでへこたれたくたびれたホストを誰も見捨てず共に寄り添って走ろうとした。悪い奴らじゃないんだ
彼は彼なりに戦っているのだ。ここで生きてく為に。自分を押し殺して。捨てられないプライドを隠して
私だけに見せた弱音。お互い通ずるものがあっだわけではなく生まれた年が一緒なだけで彼は私を選んだ。缶コーヒーを片手に
『こんな言葉は皆泣き言だと言うけど君にだけなら言っていいだろ?』
たった2週間の付き合いでこれほど頼りにしてくれているならあの缶コーヒーには90円以上の価値があるかも知れない