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解雇規制緩和による大企業の今後

 

 どうも皆さんラバハです。アラフィフ氷河期おっさんで、文化批評なんかを書いてます。 

大企業はどこへいくのか

 標題の記事の概要は、米アマゾンでは作業効率を求め、リモートでの仕事をやめ、オフィスでの仕事を週3日から5日勤務に変更するという内容です。これがどこまで他のテック系に広がっていくかは、まだ不明でしょうが、これはひとつ大きな流れになるのではないでしょうか。今後大企業は、ルールを強化し、労働者をふるいにかけ、組織を強くしていく方針でしょう。それに日本企業も追随し、大企業はルールに沿った優秀な人材を外部から入れて行き、再編が進み、さらに大企業化が進むではないでしょうか。

 企業が、気付かないように、どんどんルールを厳罰化し、労働環境を労働者が不利になるよう変えていくという意思ではないでしょうか。

能力主義がもたらすもの

 それに対して我々個人はどうすればよいのでしょうか。答えは簡単です。その会社に魅力的だと思われるための不断の努力を続けるしかありません。資格を得て、英会話を学び、外部でビジネススキルを学び、複雑化された税や保険や不動産の勉強をして身を守り続けなければなりません。収入を約束される分の責任やルールの遵守を要求されます。こうして並べると、能力主義は良くないの?と思う方もいらっしゃるかもしれませんが、このような学歴社会や能力主義といった、メリトクラシーを否定することも危険です。我々が国際社会にいて、平等に渡り合っていける能力は必要です。教育力も為替に影響するからです。

 ただし私は大企業がすすめるメリトクラシーの考え方が実は社会インフラを貧していくとも考えます。これは個人と組織の対立を軸に見ていくと一目瞭然です。

分断の起源

 昨今は、分断の時代と言われるように、様々な分断が起きています。ただ分けるだけならいいのですが、分かれた上で、対立を煽られます。

 個人の権利の拡充と、伝統的文化との対立などからやがて細分化し、ジェンダー対立、高齢世代と現役世代の対立、今では東京と地方の対立、既婚者と独身者の対立、子無しと子有りの対立などジャンル増加も加速しています。これはSNSを含めたメディアマーケティングがかなり関わっていると思います。対立構造はやはり人気がありますので、この手法を取らざるを得ないのでしょう。

 この対立構造の遷移を歴史的に振り返って見ると興味深いことに気付きます。

ユヴァル・ノア・ハラリ氏のこの本では、我々サピエンス種が生存できたのは、認知革命が起きたからだと指摘します。

 我々サピエンス種は他の種よりも弱く、知能も低い種だったゆえに集団を組むようになります。その集団の中で、嘘をつくという概念、そしてその嘘を信じることができたことが、革命だったと述べています。

つまり、嘘を信じることができるということは、真実が複数あってよいということになります。その複数ある真実を確かめるために、トライアンドエラーを行う様になります。その結果最適解を見つけ、他種を駆逐していったそうです。

 なるほど、興味深いですが、私がここで援用したいのは、個人が生存戦略として集団に帰属することを選ばざるをえなかったという点です。まさにその瞬間に、現在まで続く分断が始まったのではないかと推察します。

サピエンスの悲哀

 我々が集団という生存戦略を選択するまで、人は完全な個人でした。家族単位での集まりはあったでしょうが、それでも個人です。つまり他者に規定されない人格を持っています。そこでは個別性しかなく全ての多様性があり、規律も時間制約もありません。つまり、本能的正しさではサピエンスは自由を選んだということです。しかし、個ではネアンデルタールや他種に勝てなかった、生き残れなかったという悲哀があります。我々はそこで仕方なく個人の自由を捨て、集団を選びました。集団や組織を大きくしていくことで防衛し、その生命を維持するために規律や文化や宗教といった豊かさを生んでいったのです。

 そして、集団の中の個人は、個人の権利をここから緩やかに意識し始めます。そこから更に何世紀も経ち、封建社会を経て、近代になり国民国家が生まれ、18世紀のフランス革命で個人の権利の意識は萌芽します。そこから私たちの現在地までは一直線で繋がっています。

個が組織を破壊していく時代

 個人の欲望や権利を主張する動きが世の中に認められていく過程は、参政権などを見れば良い例でしょう。最初は貴族だけに選挙権が与えられました。そこから一般男性、女性へと権利が広がっていた変遷は個の力の拡大とみてとれます。そのように個人的正義に基づく権利の拡大はここ数十年のグローバリズムの力を背後に、集団や組織といった枠組を駆逐している様に思えます。

 つまり、もともと我々は個人であったところから、集団を組織して、個を制限していましたが、現在はその個人の権利の意識が肥大化し、集団を解体していっているということです。

 今では個人がSNSを使って人権に配慮していない企業を攻撃できます。また、そういう個別性に配慮していない企業はよくないという認識もあるでしょう。もっと言えば、個人が殺害予告や爆破予告をすることで、イベントひとつが見送りなったりするなど、個の力は現代ではますます大きくなっています。

 このように組織と個の軋轢が日常で可視化できる現代ではこの個が組織を解体していく感覚はかなりわかってもらえると思います。

弱者の個別性

 組織の中にいて、優秀な人が評価を得るのは、その個別性に価値があるからです。個別性を伸ばすための努力を評価し、他よりも秀でていることがその人の価値になります。ただしその価値を認めることは、一方で弱者の個別性にも目を向けなければならないということです。現代の組織はその弱者の個別性も評価し、保障することが正しいとされています。しかし、当然一人一人の個別性に配慮していたら、最終的には皆の個別性に配慮しなければいけません。そうなれば組織のルールは破綻していき、集団を保てなくなっていくでしょう。

 つまり、組織は今後どうなったいくかという最初の問に戻るのであれば、弱者の個別性に対応することで業務に支障がでる昨今、企業はスリムアップし、相対的な弱者は行政にお願いしたい、というのが本音ではないでしょうか。

ただし、このことが企業自身の首も絞めることになります。

個人的な正しさは世の中を貧しくする 

 我々が日常生活を送っている、毎日の日常は、基本的には国家の組織によって維持されています。それは、例えば暮らしやすい、とか、治安がよくて安全である、清潔であるといった、暮らしの殆どは国家やそれに関わる集団が担っています。

 個が大きくなることによって組織が弱くなれば、集団が弱くなります。集団が弱くなることのデメリットは、シンプルにその国家のもつ豊かさを捨てることです。つまり、治安がよかったり、公衆衛生がよいことや、インフラが整っているといった、日常の豊かさをなくすことだと思っています。
個人の正義感を推し進めていくことは、実は世の中の豊かさにはつながってないのです。

 自分が正しいと思ったことが、世の中のためにならないといわれると、そんな馬鹿なと思うでしょうし、私は個人の欲望や正しさが間違っているとは思っていません。そのへんのマインドについてまた別の記事で書かせてください。

今日はこのへんで終ります。
最後までお読みいただきありがとうございます。

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