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なぜ厳罰厨が増えるのか

 どうも皆さん。ラバハと申します。アラフィフ氷河期世代のオッサンで、文化批評なんかを書いてます。

 ここ最近の犯罪報道や交通事故の痛ましい内容を受け、刑の厳罰化を求める声が大きくなっているように感じます。

 飲酒運転によるひき逃げや、強盗、痴漢、詐欺など被害に遭われた方からすれば当然の気持ちですが、ネット空間では事件に全く関係のない第三者の人も、実刑年数の増加や、容疑者名の公表を求めたりと厳罰化を強く願っているように思えます。

 ネットのもつ力として、個人の意見が可視化されやすくなった、極論が持て囃されるなど、論をブーストさせる装置はあるのでしょうが、それでも尚疑問が残ります。なぜ人はこれほどまでに他者の厳罰化を求めるのでしょうか。

考えてみます。


なぜ万引きを死刑にしないのか

 現在多くの論調でいちばん目に付く内容が、とにかく現行法では刑が甘く、加害者が得をしている。もっと厳罰化するべきというものです。
 刑罰が足りないという発想でいくならば、もっと突き詰めてみましょう。よくある話ですが、罪の重さに関わらず、全て重刑にすれば良いというアイデアがよく言われます。万引きはあくまで例に過ぎませんが、いかなる軽犯罪においても、全て重刑を科すことで犯罪が減るという言説を意味します。万引きをしたら死刑にしたら確かに万引き犯罪は減少するでしょう。


ではなぜ万引きなどの軽犯罪に死刑が適用されないかというと、刑罰は「罪の重さ」に応じたものでなければならない、という法的原則があるからです。この考え方は「罪刑法定主義」と呼ばれ、犯罪の内容に対して過剰な刑罰を課すことは不適切とされています。

 ではなぜ過剰な刑罰を課すことがなぜ不適切なのか、それは主に以下の理由です。


抑止としての刑罰

 まず、極端な刑罰がすべての犯罪を防ぐわけではないということです。例えば、死刑が存在しても殺人や重罪が完全になくならないことからも分かるように、犯罪は単に刑罰の重さだけで防ぐことが難しいです。多くの犯罪は感情的な衝動や貧困、精神的な問題から発生するため、刑罰の重さだけでは対処しきれない側面があります。

 いや、死刑は犯罪の抑止となる。

という反論もありますが、個人的には死刑はどちらかといえば遺族の為にあるような気がします。こう考えてみます。例えばあなたがどうしても何かの事情で、誰かを殺さなければならないとします。(いったいどんな仮定だ)

そして、いざ、ナイフを手にして、あやめようとする瞬間、「あ、この国は死刑制度があるから殺すのはやめよう」とならないはずです。

殺人や強盗など極限状態に近い人間の心理はきっと冷静な判断が取れないと思いますので、厳罰化しても恐らくあまり抑止力は期待できないのではないでしょうか。

監視社会の到来

 そして、もう一つの理由が個人的には、恐らく最大の理由だと思っています。それは、小さな犯罪も重罰化されることで、その社会が、生きにくくなり、皆疑心暗鬼になるであろうという点です。これはルールに合っているか?合っていないならば捕まるかもしれない。と常に気を付ける必要が出てきます。更にもし守ってない者を見つけたら、密告することで、気に入らない人を投獄できればまた違った力学が働くでしょう。主体の悪意自体が罪に問われるならば、私たちは常に犯罪者になるリスクを大きく抱えながら生きていかなければならないということです。

 例えば道に誤って落としてしまったゴミに気付かずに歩いていたら、後に通報され、逮捕された。横断歩道のない道路を少し横切ったら実刑5年。万引きを死刑にするならば、このような法律ができてもおかしくありません。そうなればさすがに生きにくく感じるでしょう。

厳罰化してほしい本当の理由

 そんなことは分かっているのに他者への厳罰を求める気持ちは止まりません。それはもう仕方ないことなのかもしれません。なぜなら、普通にルールを守って普通に勤労納税して、普通に生きていくことが今の日本だとかなりハードモードになってきているからです。割と歯を食いしばっていないとキャリアパスを得るレースから簡単に落ちてしまいます。いやキャリアよりそもそも毎日の生活で精一杯です。しかし、それを尻目に他者がルールを破り、楽をしているのを見ると、それは風当たりが強くなるでしょう。
若くして大金を掴んだyoutuberが事件を起こした時のヘイトについても同じ構造だと思います。


余裕がなくなると、他者を叩き、厳罰化を求めるという至極当然な話で終始し恐縮ですが、余裕がないため、犯罪が多くなり、その厳罰化を求め、更に生きづらい社会になるという変なスパイラルに入らないようにしたいですね。

最後までお読みいただきありがとうございます。

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