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もしも悲しいことがあったら

人間関係。誰しも経験する人生の課題に、今ウチの子も直面しているようです。

「ママ、今日○○ちゃんとケンカしちゃった。ほんとは言いたくなかったのに、こんなこと言っちゃったの・・・」
寝る前のひととき。きょうだいそれぞれを抱いて、少しの間話を聞くと、こんなことをよく言うようになりました。

少し繊細な上の子は、自然と友達ができるタイプではなく、幼児期のように先生のフォローもなくなる小学校では、思うようにコミュニケーションが取れずにいるよう。
大抵は、「静かにしていないといけない時間におしゃべりしていた子を注意した(ら逆ギレされた)」「他の子が困っていたので、助けようとしてふざけている子を注意した(ら逆ギレされた)」、と言った内容で、親から見ても「ちょっと真面目すぎるのでは??」と、どちらかと言うと注意される側の私は思ってしまう状況です。
でも本人的には、「正しいことをしているのに、どうして受け入れられないのか」「しかも、注意した子に逆に怒られてしまった」と悲しいことのダブルパンチ。大問題です。
「そうね、あなたは正しいことをしていると思う。でももしかしたら、言い方が少しキツいのかもしれない」
「どうして?」
「人はねぇ、誰かに何か言われたとき、相手が怒っていると、『○○ちゃん、怒ってる!』ってことにびっくりして、何に怒ってるか、何をして欲しいかは頭に入ってこないことがあるんだよ。だからなるべく優しく言うと、『怒ってる!?』ってびっくりさせないから、何がイヤなのか、どうして欲しいのかわかってもらいやすいと思うんだよね」
・・・これは私自身に言いたいことでもあります。(いつもノータイムで子どもに怒ってしまうので)
まだそんなことわかんないかな、と思っていると、子どもはしくしく泣き出しました。
「・・・どうしたの?」
「・・・なんでもない。ママ、どうすれば良かったか『練習』したい」
『練習』はウチでよくやるロープレのこと。幼児のときから、イヤなことがある度に、私がお友達役をして、やりとりを再現していました。「こう言われたらなんて返事をするか」の『練習』です。
幼児期は相手に遠慮してなかなかイヤと言えない子どもに、「イヤと言う、断る」練習をさせるのが主目的でしたが、そう言えば最近は、「ケンカした後の謝り方」「相手を傷つけない言い方」が練習の主目的になってきたように思います。
子どもの人間関係は、こうして変わっていくのでしょうか。

その晩の『練習』では何度も何度も、相手にすんなり「わかった」と言ってもらう注意の仕方を、言葉を変えてやってみていました。
けれど元が「注意の仕方」ですから、お友達役の私もあっさり「そうだね、ごめんね!」とは言いません。(だって楽しくおしゃべりをしていたところを注意された、という設定)
私が(しぶしぶ)「・・・わかったよ、ごめんね!」と(セリフを)言う度に、子どもはもどかしそうに「もう一回、考えてみる!」と言っていました。
頑張りすぎだと思うのは、親の欲目かもしれません。
オトナから見たらささいな、そしてどうしようもない問題。
「そんなに気にしなくてもだいじょうぶだよ」「きっとなんとかなるよ」「相手はもう覚えてないよ」。そんなふうに言い切ってあげた方が、安心して眠らせてあげたほうが、ほんとうはいいのかもしれません。
でも(ベストな未来なら、)私はいつか、この子を『置いて』いかなくてはならない。いつか必ず、親が安心させてあげられない、この子が自分で人生の課題を解決しなければならない未来が来る。(むしろ、来て欲しい)
そう思うと、オトナから見ればささいでも、子どもにとっては間違いなく現時点での一大事を、安易に終わらせたくないと思ってしまうのです。

願わくば、なにか悲しいことがあったときに、「ママ、あのね・・・」といつでも言ってもらえるような関係を、この子とずっと築いていけますように。
そしていつか、同じように『悲しかったこと』を聞いてくれる誰かが、この子のそばにいてくれますように。
自分のなかの「正解」を見つけられず、苦しそうに眠った顔を見ながら、そんなことを思うのです。


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