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月が綺麗だから

子どもの頃、母がよく話してくれた思い出話がありました。
「昔、おばあちゃん(母の母、つまり私の祖母)と月下美人が咲くのを見たのよ。おばあちゃんとおばさん(母の姉、私の伯母)と3人で、夜起きてて、花が咲くまで待ったの」
子どもながらに、なんて美しい光景だろうと思いました。

私も小学生の頃、母と夜を過ごした思い出があります。
七夕の前日、一緒に天の川を見よう、星座を探そうという話になりました。私は翌日、学校の図書室で先生に相談しました。「今夜は七夕だから、母と天の川を見て星座を探す。星座の本が借りたい」と。
すると先生は、こっそり『禁帯出』の本を貸し出してくれたのです。
その晩、本当は外で見てはいけない本を手に、ふたりで夜空を眺めた思い出は、先生の優しさも相まって、私にとって特別なものになっています。

母や祖母のように、わざわざ時間を作り、準備をして子どもに美しいものを見せた経験は、まだ私にはありません。(めんどくさがりやなので…)
でもウチの子どもとも、たまに夜空を眺めます。
「ママ、今日は『じゅうごや』なんだって。月がきれいだから、いっしょにポッキーを食べよう?」
月が綺麗な夜、子どもがよく言うお誘いです。
今の家に引っ越してから、ベランダで月や花火を見るようになりました。ある時、今日は月が綺麗だから一緒にベランダで見よう、お菓子も食べちゃおうと子どもを誘って、ポッキーを食べながら月を見たのです。それから、月が綺麗な夜は、たまにポッキーを食べるように。

私の気まぐれな思い付きが、子どもにとっては分かち難く結びついた記憶になり、もしかしたらずっと覚えているものになるかもしれない。
そう思うと、今さらながら『親であること』に喜び以上の恐れを感じてしまいます。
私が選んだもの、与えたものがこの子のベースになっていく。
もちろん、親は子どもの人生の一部でしかなく、親の手を離れてから自分に向き合い、自分を作っていくこともあるでしょう。
でも私にとってあの七夕が忘れられないように、母にとってあの月下美人がいつまでも美しい記憶であるように、親となにかを眺めた記憶は、きっと子どもの心を作っていくのです。
それなら、どうか美しい記憶でいっぱいであってほしいと思いながら、なかなかそうさせてあげられないのは私自身。親としての力不足が、時々無性に悲しくなります。

それでも、月が綺麗な晩くらいは、一緒に夜空を眺めよう。なんの準備もいらない、ほんのささいなひとときだけど。

文豪が「I love you」を「月が綺麗ですね」と訳したという話。
真偽も真意もわかりませんが、ぽっかりと浮かんだ月を眺めながら
あなたと美しいものが見たい
あなたと美しいものを見られて嬉しい
あなたと見ると、美しいものはより美しい
そんな気持ちなのではないかと考えると、それは確かに、愛そのもののような気がするのです。


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