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長生炭鉱 2024年10月26日訪問
スマホのアラームを3時にセットし4時に出発した。目的地は山口県南部の宇部市・床波海岸(長生炭鉱)。約6時間のドライブの後、ナビに従って車を走らせるとゆるいカーブの先に海岸と、そしてピーヤが見えた。これは1932年に操業開始となった長生炭鉱の排気・排水筒だ。
1942年2月3日、この炭鉱で落盤が発生し海水が流れ込んだ。当然逃げ場もなく183名の犠牲者が出た。そのうち約7割の136名は強制連行されてきた朝鮮人だった。事故当時、日本はアジア南方へ侵攻を続けていた。事故の一か月前にはフィリピンのマニラを占領している。そんな「快進撃」のなか、石炭の増産は国の一大事業であり、長生炭鉱事故に当時の新聞が割いた枠はごく僅かだった。
事故の後、炭鉱への入り口は土砂で隠れ雑木林となって人々から忘れられていき、遺骨は海底に取り残されたまま82年が過ぎた。
宇部の市民団体「長生炭鉱の水非常を歴史に刻む会」は30年以上ものあいだ行政に調査・発掘を呼び掛けてきたが国は「調査は困難である」と回答し続けてきた。そのあいだも刻む会は犠牲者の身元確認と、追悼集会、そして坑口を開けるための働きかけを続けてきた。
そして2024年9月、ついに林を伐採し土砂を掘り起こして埋もれていた坑口を見つけることに成功する。10月末にはダイバーにより潜水作業も始まる予定だ。
10月26日、坑口付近で追悼式が行われた。日本・朝鮮側それぞれの遺族も出席し、子どもの時以来、または初めて坑口を見て涙を流す人々もいた。
この長生炭鉱事故とその後の対応については日本の歴史に対する態度がそのまま出ている。都合の悪いことは隠せ、そして忘れてしまおう。
自宅から片道6時間の距離は最初怯んだし前日まで行くか悩んでいた。しかし、やはり行かなければと思ったのは鳥取県でも同じように強制連行により連れてこられた朝鮮半島の人々が炭鉱事故の犠牲となり今も遺骨の掘り起こしが出来ていないからだ(岩美・荒金鉱山)。追悼式の場で誰かが言った。「そこに人がいる。」「近づこうとすることが慰霊になる。」
それならば遺骨があることが分かっていながら今もそのままにしている鳥取県はどうなんだろう?
知った以上、見に行かないという選択肢はやはり無かった。
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