もう、嘘はつかないで 第2話
いつものように生きづらい日常生活が始まる。
しかし、ひとつだけ癒される場所があるなら、唯一安らげる大切な場所が
あるなら、人は生きていけるのだと信じ始めていた。
私の心の部屋にヒロトがいつもいてくれる。
その場所さえあれば、その人さえいれば生きていけると信じ始めていた。
ある日曜日の夕方、渋谷の街は変わらず華やかさと喧騒が入り混じっていた。私は久しぶりに会う大学時代の友人と待ち合わせの喫茶店に向かっていた。スクランブル交差点で信号待ちをしていると音楽が流れてきた。
どこかで聞いた曲。隣にいた女性二人の悲鳴の声が聞こえた。
「嘘―!一ノ瀬ヒロトが?」
私は叫ぶ女性の方向に視線を移した。
ビルに設置している大きな画面に文字盤が流れている。
「人気ミュージシャン一ノ瀬ヒロト、失踪!」そして大きく映った画面。
その美しい顔は、まぎれもなく「小さな日記」で会ったヒロト。
何が起きているの?私が会った彼は人気ミユージシャンだった?
「カリスマアーティスト失踪!事務所とのトラブルか?」
画面に流れていく文字をしばらく無感情に見ていた。
からまっていた糸がほどけていく。
何故マスターにヒロトの職業を聞いた時に言葉を濁したのか。
何故職業を教えてくれなかったのか。
何故いつも会う場所はバー「小さな日記」だったのか。
何故、連絡方法がマスター大野経由だったのか。
「嘘つき!一緒に故郷に帰ろうって言ったじゃない」
私の嘆く呟きは、
聞き覚えのあるメロディーによって消されていった。
♪ 人は寂しさを笑顔に隠して
嘘をその横顔に見つけて哀しむ
泣きそうな夜に僕を抱きしめてよ
ここへおいでと言ってくれ
ひとりの夜は長く寂しいんだ
何も言わないで夜明けまで僕のそばでいて
ここへおいでよと言ってくれ
ひとりの夜は孤独でつらいんだ
何も言わないで夜明けまで僕のそばにいて ♪
私は夢遊病者のように踵を返して駅へと向かった。
なだらかな坂が今日ほど疲労を感じる日はなかった。
「小さな日記」のドアを開けると、私を見た大野の驚いた表情をした後、
覚悟をしたように少し哀しい表情になり私を見た。
「何故?何故教えてくれなかったの?彼が一ノ瀬ヒロトだったことを
何故教えてくれなかったの?」
「ヒロト君にあなたには言わないでくれと口止めされていたからです」
「二人で私に嘘をついていたの?」
「それは違う。それだけは違う。誤解しないほしい。ヒロトはあなたに救われていたのです。自分のことを知らない人に会えてほんとの自分を、田舎の少年の自分になって話せて嬉しいと言っていました。春香さんと話している時のヒロトは、素のままの田舎の少年でした」
少し言葉に躊躇した後、
「ヒロトはいつも孤独でした・・・ひとりで孤独の世界の中で必死に生きていたのです。ただ、歌が好きなだけの田舎の少年がその世界で成功を収めてしまったことはヒロトにとっては幸せと程遠いものだった。自分に合わない生活の中で生きているとひとは心を閉ざしてしまう。ヒロトも自分の心を固くガードして生きていたのです。
そうしなければ自分自身を見失い壊れてしまう。そんな氷の上を歩くような危うい状態で生きていたのです」
「そんな自分に合わないと思うのなら何故その場所から去らなかったのですか?」
「若者に絶大な人気のあるヒロトの音楽、カリスマ性は利益を生み、それによって事務所、音楽業界、様々なしがらみができてしまった。抜けられなくなっていたのです。ヒロトの純粋さ、正直さに甘え付け込まれていたのかもしれません。誰にも心を開かないヒロトが出会ったばかりの春香さんには心を許していた。ヒロトにとっては大切で貴重な存在になっていたのです。
ヒロトにとって春香さんだけが心のふるさとだったのです」
「それを聞いて私が喜ぶと思いますか?嘘をつかれて、理由も告げず突然私の前から消えて」
「ほんとに誤解しないほしい。ヒロトは春香ちゃんにだけは心を許してほんとの自分でいられたんだ」
「私に心を許していたのなら、ほんとのことを言ってくれたはずだわ。
信じていたならこんな裏切るような去り方はしないわ」
「自分に厳しい男だから、厳しいがゆえに刃を自分に向けてしまう。ヒロトはそういう男です」
もはや乾いた心に、大野の言葉は白々しい言い訳としか響いてこない。
私はドアを開けて外へ出た。
空を見上げる。
ヒロト、一体あなたは今どこにいるの?
「春香ちゃん、もし僕が・・・」
教えてヒロト、あの時何を言おうとしたの?
次の言葉を教えてよ。そうでなければ私はあなたを恨んでしまうよ。
裏切者にしてしまうよ
心の空虚と孤独と虚無が心を支配してくる。
やっと解放されたのに。またあの世界が足音をたてて近づいてくる気配に
恐怖を感じた。
数日後、私は歩いた。ただひたすら街を歩いた。人混みの中をいつまでも歩き続けた。それでしか自分の中の感情をコントロールーすることができなかった。渋谷、新宿、池袋繁華街を歩く。群衆の中の孤独でいること、それが今の私には居心地がよい。数人の男子高校生とすれ違った。
「あいつクラスの子に告白したら振られたんだってよ」
日常生活を生きている十代の季節が別世界のように私の中で隔離している。
ビジネスマン風の男性が、
「あっ、その件に関しましてはまた改めて連絡致します」
と、額に汗をにじませながら急ぎ足で通り過ぎて行く。
皆それぞれの季節を生きているのだ。
それぞれの生活の中で喜怒哀楽のドラマを必死に生きているのだ。
ある者は今日を生きる為に。
ある者は家族にパンを与える為に。
ある者は夢に向かって。
人は皆自分の季節に彩を添えながらそれぞれに生きているのだ。
視界に入った喫茶店に入り、アイスコーヒーを注文する。
隣の席で女子高生の声が聞こえてきた。
「一ノ瀬ヒロトが事務所のトラブルが原因で突然失踪したのには驚いたわ」
「あそこの事務所って、女社長だよね。写真でみたことあるけど、高圧的な意識高そうなおばさんだった」
「今では、人気タレントや多く所属している事務所らしいわ」
「だからそれもヒロトが地盤を作ってきたからだよ。あの事務所大きくしたのはヒロトのお陰だよ」
「まあ、そう興奮しないで」
ひとりの女子高生が冷静な口調でなだめている。
「ヒロトに何かが起きたのよ。人生が変わるぐらいの何かヒロトの身に起きたのよ。それでなければ誠実で、純粋なヒロトがファンに裏切るようにしていなくなるなんて考えられない」
哀しい表情で訴えている。
ヒロトに人生が変わるぐらいの出来事が起きた?
琴線に触れ刺さったときに人は決意して動き出すのだ。
私の中で何かが動いた。迷うことなく動いた。
面接室で差し出された名刺には「代表取締役米田加代子」
と印刷されていた。
「当社を選んだ理由を教えてください」
小柄で、少し太り気味の中年女性の喉の奥から押し出してくるような声に
たじろぐ。彼女特有のアクの強さを感じて小声になる。
「あの、経理という仕事に興味があって応募しました」
「そうですか。勿論初めての方でもやる気さえあれば採用対象ですよ。それに経理は主に私が管理しているので募集したのは経理補助の簡単な事務員だから」
敬語とタメ口のアンバランスな雑談のような会話をしながら面接は終わった。そして、あっけないほどに採用は決まった。
「合格です。出社できる日がきましたら連絡してください」
立ち上がり部屋のドアを開けたと同時に、通り過ぎて行く従業員に声をかけた。
「あっ、佐野さん、今度入社する子だから、簡単に会社のこと教えてあげてね」
お手軽に用事を頼むような軽妙な声で言いながら去って行った。
佐野という女性は呆れたような表情をして、
「ああ、捕まっちゃたわ。ほんと、いやなことは周りに投げやり。すぐに誰かに仕事を振る。あなたよく、こんな会社に入る気になったわね。誰かのファンなの?」
「いえ、この世界のことはあまり知りません」
「そう、ただファンだから傍で働きたいという人達が入社してくるけど、
ことごとく皆辞めていくのよ。面接したあの人はどうだった?感想教えて」
「明るくて、とても熱い情熱を持った女性だと思いました」
「ぎゃははは、皆初めはそう思うのよ。あの女性がこの会社の社長、女一代で芸能事務所を立ち上げて一ノ瀬ヒロトを人気アーティストにした女傑社長よ」
そして無遠慮に私に視線を向けると、
「なるほど、社長があなたを選んだ理由がわかったような気がするわ。あなた使いやすいタイプだもの。ま、あの人は意見を言う人、強い自己主張をする人は雇わないから。それに色々問題あって今あの人ピリピリしているの」
・・・一ノ瀬ヒロトが失踪したからですか・・・
私はその言葉を飲み込んだ
数日後、初出勤の日会社へ行くと米田は既に出勤していデスクデスクに座るとすぐに分厚い書類の束を目の前に重ねた。領収書という文字が視線に入ってきた。米田は束ねてある領収書を指さしながら、
「この領収書、区分けしてちょうだい。接待交際費、厚生費、資料を見てなど参考にしながら、それをパソコン内の経理台帳に打ち込んで。
主にあなたの仕事は、パソコン作業と、領収した区分け作業よ」
説明しながら、米田は一枚の領収書を手に取った。途端に表情が曇った。
そしてデスクの受話器を取ると叫ぶように言った。
「沢渡啓介の今日のスケジュールは?マネージャーがいるならすぐ社長室に来るように伝えて」
数分後、バタバタと音をたてて全力疾走で走ってきた。
「社長何かご用ですか?」
「ちょっとこの領収書は何?15万焼き肉亭って沢渡啓介は一体誰と食事をしたの?」
「一緒に番組をしているスタッフとか共演者です」
「あなたもそこにいたの?」
「はい、いました」
「何故、止めないの。啓介が接待交際費を経費で使うのなんては5年早いわ
少し人気が出てきたと思って勘違いしているんじゃないの」
「・・・・」
「まあ、あなたに言っても無理だわね。沢渡の味方だもの。
とにかく啓介に今回だけは会社がなんとか経費でおとすけど、自分のお金で奢ってあげなさいと伝えて」
若いマネージャーはずっと下を向いたまま聞いている。
それから数日が過ぎたある日の夕方、社長室のドアが乱暴に開いた。
沢渡啓介だ。テレビで見るより精悍で筋肉質だ。
「あら、どうしたの?」
「僕の経費のことでマネージャーが注意を受けたらしいけど」
「そうよ」
「言わせてもらいますが、僕は今年に入ってからレギュラー番組もCMも契約して、会社に貢献しているはずです」
米田は大袈裟にため息をつき、
「あなたこの業界のこと何もわかってないのね。あなたが人気が出るまでどれだけ会社があなたに経費を費やした思っているの?あなただけの力でここまできたと思っていたら大きな間違いよ」
「そんなことわかってますよ。だから、僕は経費が使えないと言う理屈になるのですか?」
米田は尚も何かを言おうとする啓介を手で遮るように、
「ああ、もうわかった。わかった。面倒な話はごめんだわ。この話はもう終わりにしてちょうだい。頭が痛くなるから今日はこの話はおしまいよ」
沢渡啓介は不愉快な表情のまま部屋を後にした。
「まったくどいつも、こいつも売れてくると自己主張が激しくなって疲れるわ」
私は米田を改めて見た。目の前にいる小柄で特徴のない中年女性が、女社長になり芸能事務所として何故成功できたのか私には理解できない。
昼休憩の時間になり部屋を出ようとすると、米田が呼び止めた。
「入社の時にも言ったけどここで見たこと、聞いたことはどんなことも絶対に秘密よ。墓場まで持って行ってちょうだい」
小さな体から流れてくる高圧的なエネルギに私は委縮して首を大きく左右に振り部屋を出た。
玄関の出口で佐野明美が声をかけてきた。近くのパスタ専門店に入ると、
「どう?秘密の加代ちゃんと一緒に働くのは」
「秘密の加代ちゃん?」
「そう、なんでも秘密、何も誰とも共有しない会社、そして従業員を車の
部品のように使う会社、あなたもなんでもやらされないように気をつけてね」
明美は誰かに会社の愚痴を言いたくてたまらなかったと言った。
「以前に経理で働いていた方は何故辞めたのですか?」
「社長のシークレット経理に興味を持ったことが原因らしいわ」
「シークレット経理?」
「社長は経理事務を雇っても、雑用経理しかさせない。それ以外の経理は
ロックがかかっているの。前の事務員は毎日ゲームのようにパスワードを
解くのを楽しんでいたらしいわ。それを社長に見つかって即刻クビよ」
明美は、和風パスタフォークに絡める口の周りについた刻みのりをナフキンで吹きながら
「ねえ、社長に会社の内情は墓場まで持って行けって言われなかった?」
「はい言われました」
「きゃははが、やっぱり言われたのね。傑作だわ~その台詞、社長の常套句よ」
明美は愉快でたまらないという感じで顔を崩して笑った。
ランチを終えて、部屋に戻ると、中から言い争う声が聞こえてきた。
そっとドアを開けると長身の女性が私の方に顔を向けた。女優の永田レイだ。永田レイは、時々単発ドラマに出演している個性派女優だ。
その隣に長身の男が直立不動で立っている。
私は経理部屋に戻りドアを閉めた。
が、二人の会話ははっきりと聞こえてきた。
「ここを辞めてどこかの事務所に行くってこと?」
米田の高圧で、支配的な口調が聞こえた。
「私を裏切るの?」
「どうして辞めることが裏切者になるのですか?そういう社長の考えについていけなくなったから辞めたいのです」
「河原崎も何とか言ってちょうだい」
米田はいらついた感情をぶつけるように言った。
直立不動能面男は静かな口調で、
「レイさんも色々考えがあるでしょうが、社長も色々考えていると思います」
「もう!その言い方がいつもいらいらするのよ。あんたが一番考えてないのよ」
感情をアウトプットしている米田と、感情をインプットで生きるているような男の光景のちぐはぐな会話に私はおかしくなり笑いをこらえた。
「レイ、あなたが望む条件があるなら言って。給料はアップするわ。もう一回考え直してちょうだい。ねっ、ねっ」
永田レイは米田の極端な言動に呆れたような表情で少し後ずさりをしながら、
「また、改めてお話をします」と言い部屋を出て行った。
「春香、ちょっと来てちょうだい」
米田が私を呼んだ。
「まだ紹介してなかったわね。私の秘書の河原崎誠、彼女は新人の経理事務井澤春香よ」
私は改めて河原崎誠を直視した。面長の輪郭、細長い一重瞼、唇の薄さ、
そのまま壁に飾ってもいい能面のように見えた。
米田は腕組みをしながら天井を見ながら何かを考えている。
「臭いわ。プンプン臭う。怪しいわ」ぶつぶつ、呟きながら私を見た。
「春香、あなたしばらく永田レイを尾行してちょうだい」
私は驚き絶句した。尾行?
・・・この事務所はなんでもやらされるから・・・
明美の言葉を思い出した。
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