もう、嘘はつかないで 第1話
あらすじ
バー小さな日記で偶然出会った男性ヒロトとのひとときに私の精神は解放されて幸福感に満ちていたが、ある日突然私の前から姿を消した。
理由がわからず悶々と過ごしていたある日、
スクランブル交差点の画面から流れる顔とテロップに衝撃を受ける。「人気アーティスト一ノ瀬ヒロト失踪!」彼は若者に人気のあるミュージシャンだった。私は失踪原因を知るためにヒロトの所属していた芸能事務所で経理事務として働く。そこで所属タレントや俳優達の様々な人間模様を知る。そしてヒロトと社長米田加世子との衝撃的な事実を知った時、停止していた歯車が動き始め二人の再生の人生が始まる物語。
私は時々、大空を飛ぶ鳥を見て思う。鳥はどのような気持ちで飛んでいるのだろう。鳥も人間のように孤独を感じるのだろうか。それとも鳥は人間を見て羨ましいと思っているのだろうか。少なくとも人間特有の生きづらさは感じていないだろう。鳥になって空を飛べるという願いが叶うのであれば私は今のすべての生活を捨ててもいいとさえ思う。 鳥のように風に乗って自由に心のおもむくままに飛ぶことができたら現世で制限された人間の魂はどれほど自由に解き放たれるだろうか。
今でも忘れられない幼い頃の鮮烈な光景がある。五歳の私の一日の冒険の始まりは山グミを食べることから始まる。甘酸っぱく鮮やかなオレンジ色のグミは口の中で広がりなんとも言えぬ美味しさで充実感に包まれる。それから家の近くの広い野原を走る。ただ走るだけだ。空は真っ青な色。地面の緑と青い空色に包まれて至福の時間を過ごす。夕暮時になるとたんぽぽやクローバーの草花を踏みながら家に帰る。これだけの日常、ささやかな遊びの時間だが、幸福感は言葉にできない程充実していた。
どこまで走っても枠のない空間と時間の中で生きていた至福の時、 この自由さがこれからも続くと信じていた。 無限の自由さは永遠に続くと信じていた五歳のピュアなあの頃。いつの頃からだろう。自分の生きる居場所がないことに気づいたのは。心の虚無感と孤独を友達のように抱え込んでいたのは。孤独の重さは人それぞれの重さなのならば私はすべての人々に聞いてみたい。あなたはどのくらいの孤独と虚無と厭世感を胸の奥に秘めて今日を生きているのですか?と。
小さな花屋の横の細い道を歩くとなだらかな坂道になる。両側に乱立する松の木は、まるでその場所へ行く人間を選択しているかのように静寂な風景を醸し出している。深く深呼吸をして、更に坂を上っていくとバー「小さな日記」はある。「いらっしゃいませ」マスター大野は、いつもと変わらない柔らかな表情で出迎えてくれる。カウンター奥の椅子には既に男性の先客がいた。その横顔の形の美しさだけがくっきりと映像のように私の視界に映った。ひとつ空けた椅子に座り、スライスレモンをたっぷりと入れたハイボールを注文して喉に流し込む。疲れが体に染みわたる。
「ああ、ここに来るとほっとする」
「そう言っていただけると嬉しいです」大野は目を細めて笑みを浮かべる。そして、向きを変えて、隣に座っている男性に話しかけた。
「ヒロト君、最近忙しいの?」
「ええ、今日は少しだけ時間が空いたからマスターに会いたくて飛んできました」男性は端正な顔に少し笑みを浮かべて私の方を向いた。澄んだ黒い瞳。見つめていると吸い込まれて違う世界に連れて行かれそうな吸引力のある強い光を放っている。醸し出す透明感の美しさは精神からにじみ出てくる美しさだ。多分この男は純粋に生きてきたのだろう。
生きてきた証が表情や容姿に反映されている。
「忙しくて少し疲れています。実家に帰ってゆっくり休みたいですよ」
「実家は福島のS町でしょう?1日休みをもらえれば帰れるじゃない」
「うん、そうなんだけど・・・」
「あの、私の故郷も福島県のS町です」
「ええっ、S町!」
ヒロトの瞳が輝き、顔じゅうに笑顔が溢れた。
「嬉しいなあ。この広い東京で同郷の人に会えるなんて奇跡だ」
ヒロトは懐かしむような表情で遠くを見つめた。
そして一気に心のタガが緩み幼馴染に会ったかのように話しかけてきた。
幼い頃に遊んだ、山や川、野原など自然の中で過ごし様々な遊びを熱を帯びて話す。柔らかな風が吹いて木々達がゆらゆらと揺れ動いているような幻想の世界が彼の後ろに感じた。ふいに体中に熱い液体のようなものが流れた。
「マスター、今日お客さんいないから歌っていい?」大野は無言で頷いた。ヒロトは傍にあるギターを手に取ると静かに歌い出した。そして、私の方を向き、「あなたに歌のプレゼントをします」と言った。
ギターの音が店の中に広がっていった。
♪ 人は寂しさを笑顔に隠して嘘をその横顔に見つけて哀しむ
泣きそうな夜に僕を抱きしめてよここへおいでと言ってくれ
ひとりの夜は長く寂しいんだ
何も言わないで夜明けまで僕のそばでいて
ひとりの夜は孤独でつらいんだ何も言わずに僕のそばにいて ♪
透き通る美しい声だけれど儚げな哀しい声。ヒロトの歌声は、心の奥の深淵を溶かして解放してくれる不思議な力があった。
「素敵な歌をありがとう。感激しました」
「僕のほうこそ、あなたに会えてよかった」ヒロトは私の右手をすっぽりと包み込み自分の方へ引き寄せて言った。
「いつか故郷に一緒に遊びに行きたいですね」
週末の金曜日、
小さな日記のドアを開けると大野が待っていたように、声をかけてきた。
「春香さん、来週の休日予定ありますか?」
「特にないです。それに私予定を決めるのが苦手だから友達と食事の約束していても当日になると行きたくなくなる。だからなるべく約束しないの」「もし、休日予定がなかったらキャンプに行きませんか?ヒロトも誘っているんだけど」
「ヒロトさんも行く予定なの?」
「ええ、ヒロトは楽しみにしています」
「ヒロトさんて何をしている人なの?」
「ううん・・・自由業ってとこかな」
言葉を濁す。
「私キャンプは初めてだけど大丈夫かな」
「勿論、準備は全部こっちでするから、春香さんは手ぶらで来てくれればいいですよ」「わあ、面倒くさがり屋の私にはありがたいお言葉、じゃ、甘えて参加します」
「ヒロトも喜ぶよ」ヒロトも喜ぶよ、その言葉に含まれている重みをその時の私は知らなかった。
川のせせらぎの音、鳥のさえずり、緑の木々からは癒しエネルギーが注がれている。私は大野が焙煎してくれたホットコーヒーを飲みながら、ゆっくりと流れる時間の中にいた。こんな世界もあったのだ。新鮮な驚きと喜びだった。「楽しんでいる?」後方からヒロトが声をかけてきた。「ええ、とっても。キャンプの価値観が、劇的に変わったわ」
「ほんと?春香さんが楽しんでくれて僕も嬉しいよ」
「キャンプって色々な準備や、備品を揃えるのが面倒だし、何が面白いのかわからなかったけど自然でゆったりと流れる時間の中で過ごすことの多幸感を体が喜んでいる」
ヒロトが満面の笑みを込めて頷いた。
「キャンプに詳しい大野さんのお陰だね」
大野の方を向くと手招きをしている。勢いよく燃えている火の中にアルミホイルで包むものを見て「そろそろ出来上がっているな」と言うと手際よく
火の中からアルミホイルを取り出した。開くとさつまいも,茄子、
ジャガイモ、アスパラガス、ベーコン厚切りがある。
「これを好きな味付けをして食べてごらん。最高に上手いぞ」
大野は小分けにしてある小さな紙皿のバターや、塩、マヨネーズ,醤油などある中から塩を振り厚切りベーコンを口に入れた。
「上手い!二人も好きなのを選んで食べて」
私は香ばしくて燻したような茄子をバターと少し醤油を垂らした。
口の中に入れる。
「美味しい!こんな美味しい茄子を食べたのは初めてよ」
ヒロトが私の顔を覗き込みながら言った。
「美味しい?今日楽しい?楽しんでくれている春香さん?」
「うん、凄く楽しい。私食べるという行為が幸せな気持ちになることを初めて知ったわ」
「そうだね。どこで、誰と食べるのかで美味しさもまったく変わるね」
そういいながらお大野は、膨らんだお腹をさすり、
「ああ、腹いっぱいだ。眠くなってきたから少し休むよ」
と言いテントの中に入っていった。私とヒロトは木々のエネルギーに誘われるようにどちらともなく歩き始めた。ふっと空を見上げた。どこまでも続く青い空 地面には様々な種類の雑草が生えている。風が優しく頬を撫でていく。あの時もこんな風が吹いていた。優しく日差しが包んでくれた。
幼い姿が鮮明に甦った。
「この風景を見たら田舎を思い出しちゃった。ずっと背中を向けてふるさとを拒絶していた町。昔気質の風習にがんじがらめになって生きる人生はうんざりだと故郷を飛び出してきたの」
あの頃と同じ青く澄んだ青い空、あの時私は自由だった。無限の自由の中を生きていた。どこまでも続く草原を私はただ走っていた。それだけで幸せだった。楽しい時間が存在していた。至福の時間を生きていた。
私は立ち止まった。
「どうしたの?」ヒロトが私の顔を覗き込む。
「私は、私は、どうして・・・」
込み上げてくる感情で言葉が詰まった。
「どうして、どうして・・・あんなに自由な時間が好きだったのにどうして・・・」
涙が後から後からあふれ出て止まらなかった。
突然ヒロトが私の身体を抱きしめた。
「春香ちゃん、帰ろう。いつか一緒に故郷に帰ろう」
私はヒロトの瞳を見上げながら幼子のように大きく頷いた。
ヒロトは私の身体を抱き寄せて近くのベンチに座った。
静寂な時間の中に二人はいた。ヒロトが静かに歌い始めた。♪神秘的な横顔 謎めいた瞳 僕を見つめる時の切ない色
恥ずかしそうに俯いた時に見つけた長いまつげ
哀しそうに笑い 嬉しそうに哀しむのはどうして?
僕は君の光になりたい
もし僕の照らした光が見えなくなった時は
目を閉じてごらん
ほら 道を照らしている光が見えるだろう
だから泣かないで
泣きそうな夜は僕を思い出して そっと抱きしめてあげるよ
僕はあなたの光 あなたの道を照らす光
いつまでも愛している♪
垣根のない心と心が糸のように繋がり、二人の間に信頼感が生まれていた。言葉はいらない、音のない世界にしばらく漂っていた。それは何時間いても飽きることのない居心地の良い時間。肩に手を回していたヒロトの力が強くなった。
「春香ちゃん、もし僕が・・・」
「えっ?」
「僕が・・・」
「何?」
ヒロトはベンチから立ち上がり言った。
「いや・・今度会った時に春香ちゃんに、はっきり言うよ」
強い意志を込めた視線で言った。
もし、あの時ヒロトに愛されていることを知っていたら私は手を差し伸べて救ってあげることができたのだろうか。彼の闇を癒してあげることができたのだろうか。
第2話:https://note.com/mute_holly8157/n/n683a9676e65a
第3話:https://note.com/mute_holly8157/n/n28f1453b20a0
第4話:https://note.com/mute_holly8157/n/n75b914a98bcc
第5話:https://note.com/mute_holly8157/n/ne24cc66eed6c
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?