【朗読Bar原稿】ハーツクライ~世界にとどろく心の叫び~

朗読Bar出演時原稿
公演日:2024年2月7日
当時読んだ内容をほぼそのまま掲載しております。

ハーツクライ 世界にとどろく心の叫び
 
 「英雄」ディープインパクト。競馬を知らない人でもその名を聞いたことはあるのではないだろうか。日本で出走した全てのレースで1番人気。中央競馬で最もグレードの高いG1レースを通算7勝。3歳時には、世代限定の3つのG1レース、いわゆる「クラシック3冠」を、デビューしてから無敗のまま制覇した「無敗の三冠馬」。
4歳時には日本調教馬として初めて世界ランキングの1位となり、「日本近代競馬の結晶」とまで言われたディープインパクト。そんな彼でも、無敗のまま現役生活を終えることは無かった。約2年間に14回走った中で、ディープインパクトが負けたのは2回。1つは4歳時にフランスで行われた凱旋門賞にて、海外の並み居る強豪を相手に3着。そしてもう1つは、無敗のまま迎えた3歳の年末、G1有馬記念での2着。国内ではもはや敵なしと思われた彼に、唯一、先着した馬がいた。
今回お話しするのは、絶対王者ディープインパクトに唯一勝った日本馬。そして、相棒として運命に立ち向かった、フランス人ジョッキーのお話し。
 
2001年4月、北海道のとある牧場で彼は生まれた。名前は「ハーツクライ」。母の名前、アイリッシュダンスから連想し、ダンスパフォーマンス「リバーダンス」の一曲、「ザ・ハーツクライ」からその名がついた。
つやの良い黒ずんだ茶褐色の毛並みに、二重のきれいな瞳。「流星」と呼ばれる額から鼻筋に流れる白い模様。小顔で足長の整った馬体。彼はサラブレッドの中でもイケメンに部類されていた。実際、雌馬からはめちゃくちゃモテたらしい。残念なポイントを挙げるとすれば・・・精神的に不安定で神経質な性格をしていたことと、がに股ですこし歩き方が独特なこと。体つきが細く、スタートが苦手。でも、それを補う以上の加速力で追い抜くポテンシャルを持っていた。順調にトレーニングを重ねたハーツクライは、同世代と戦う、クラシックレースに挑んでいくことになる。
 
「クラシック」とはその年の3歳馬だけが挑戦することができるG1レースのことを指し、その中でも「皐月賞」「日本ダービー」「菊花賞」をまとめて「クラシック3冠」と呼ばれている。もちろん、誰でも参加できるわけではなく、獲得賞金などの条件をクリアした者しか出走ができない。その枠は狭く、各レースにつき最大18頭。年間約7000頭以上生まれるサラブレッドの中から選ばれたものだけがその権利を得られ、3冠すべてのG1レースに出走できるのはごくわずか。
ハーツクライの戦った2004年クラシック世代の中で、3つのレースを完走したのはたったの4頭。彼はその内の1頭。世代トップクラスの実力者であった。
しかし、そんな彼でも、クラシックを取ることはできなかった。
 
ハーツクライは2004年1月のデビュー戦を勝利したあと、3戦目のレースで勝利し、クラシックの1冠目、G1皐月賞の挑戦権を獲得した。初めてのグレードレースへ挑戦となったハーツクライ。しかし、後方の馬郡から抜け出すことができず、14着の惨敗に終わった。
その次のレースに勝利し、日本ダービーの出走権を獲得。クラシック2つ目の頂をかけてダービーに挑む。
レース当日、5月とは思えない猛暑の中、レースは異常なハイペースの消耗戦となった。前を走る馬たちが体力を失い徐々に脱落する中、最高方に位置していたハーツクライはいつものように最後の直線で加速していく。メンバーの中で最も早いスピードで追い上げるが・・・2着。勝ち馬のタイムはレコード。しかも、10着の馬までが今までのレコードを超えるほどの凄まじい結果であった。
この年の日本ダービーは後に「死のダービー」と呼ばれるようになる。壮絶なレース内容だけではなく、走っていた馬たちが次々と故障や体調不良になり、成績不振、長期休養、さらには引退まで至った馬もいた。また、レースの途中に故障し、そのまま命を絶った馬までいたのだ。
ハーツクライはそんな「死のダービー」で豪快な走りを見せ、世代トップクラスの実力を示した。しかも、他の馬たちのように故障も何もなく、この後も走り続ける。順調にいけば、クラシックのみならず、いつかG1を取ることができるのではないかと、期待する声も聴かれた。
 
だが、ここから彼の苦難の日々が始まる。
 
秋に行われたG2レースでは3着。その後挑んだクラシック最後のG1菊花賞では1番人気を背負うことになるのだが、人気に答えられず7着に敗れる。
クラシックで無冠となった後、ジャパンカップ、有馬記念と二つのG1レースに果敢に挑んだが、10着、9着と苦杯をなめた。
 
当時のハーツクライは「死のダービー」を乗り越えることはできたが、元々持っていた気難しい性格は治らず、馬房でつないでいてもいきなり暴れたり、噛みつこうとしたりするなど、常に神経を尖らせていた。また、細くてゆるい馬体はなかなか大きくならず、実力のある年上の馬たちにはまだまだかなわなかった。
年が明け、4歳になった2005年。4月からの3戦を2着、5着、2着と、上位に上がっては来るが勝ちきれないレースが続く。特に3戦目、G1宝塚記念の2着は、後方からの最速の追い込みで前年のジャパンカップ、有馬記念の勝ち馬よりも先着したが、先に抜け出していた馬にはあと80センチ届かなかった。
 
このままG1を勝つことなく終わってしまうのか。ハーツクライは確かに強い。並みのサラブレッドではG1で何度も上位に上がることはできない。しかし、G1を勝った馬に対して、何かが足りない。このまま「勝てない運命」に負けてしまうのか。
同じ年の秋。伸び悩むハーツクライに、いくつかの転機が訪れる。
6月の宝塚記念の後、夏の間を休養にあて、秋のシーズンに向けて英気を養った。そして、牧場から帰ってきたハーツクライを迎えた調教師はこうコメントしている。
「ハーツクライが二頭いた」
今まで成長しきれなった馬体にようやく必要な筋肉がつき、同じ馬と思えない程、体つきが変わっていたのだ。加えて、神経質な気性も成長と共にある程度改善され、どっしりとした面を見せるようになる。大器晩成。その言葉通りの見事な仕上がりになっていた。
G1を取るため、ハーツクライ自身の準備は万端。そして始まった秋のシーズン。彼は運命的な出会いをする。
 
フランス人ジョッキー、クリストフ・ルメールだ。
ルメール騎手は、現在、日本の競馬界におけるトップジョッキーの一人。2023年の中央競馬で最も勝利した、いわゆるリーディングジョッキー。「G1はルメールを買えばあたる」と言われるほど、何度もG1で勝つシーズンもあった。
しかし、そんな彼も、当時は日本のG1はおろか、G2、G3でも勝つことができない「善戦マン」だった。
 
フランスで騎手をしていたルメールは、日本の競馬に参加するため短期免許を取得して度々来日していた。そしてこの年の秋も彼は短期免許を取得。勝ちきれないながらも、G1で好成績を残す手腕を買われ、ハーツクライのパートナーとして選ばれたのである。あと一歩で勝利をつかめない。そんなところにひかれあったのかもしれない。
ルメールが始めてハーツクライに乗ったのは、G1秋の天皇賞のレース当日。『スタートが遅いので前半は後ろからになる』という情報を基に、ルメールも後ろからの競馬をしようと心がけた。
初コンビのレースがスタート。ハーツクライは・・・絶好のスタートダッシュを決めた。これにはルメールも「話と違う!」と内心やや切れ気味に驚いた。レースは6着と敗れてしまうが、ハーツクライのポテンシャルを感じたルメールは「馬を知っていたら勝てたのでは」と少し後悔の念を抱いていた。
続いて出走したG1ジャパンカップでは、一転してスタートを失敗。「やっぱり下手なの!?」と再度ルメールを驚かせたが、本当の意味で驚いたのはその後だった。いつものように後方から追走するが、全体的に各馬のペースが速く、息を入れる余裕もない展開。しかしハーツクライはすいすいとついていく。最終直線では、前を走る馬の間を縫うようにすり抜け、怒涛の勢いで追いあげ、先頭に迫り、並んでゴールイン。タイムはなんと世界レコード。ハーツクライの順位は・・・2着。勝った馬に、わずか3センチ及ばず、人馬ともに初のG1勝利をまたつかみ損ねてしまった。
 
2着は何度もあるのに、俺は勝ちきれないのか。勝ちきれなかった後悔に襲われ、2週間ほど立ち直れなかったと語るルメールであったが、「落ち込んでいる場合ではない」、「ハーツクライを勝たせるために自分がすべきこと、考えるべきことがあるんだ」と気持ちを切り替えた。彼のポテンシャルを確信したルメールは勝利に向けて全力で作戦を考えた。
次の有馬記念では、あの馬との対戦が決まっていたからだ。
 
デビュー戦から無敗、圧倒的な強さでクラシック3冠を制覇した、「英雄」ディープインパクト。その強さと加熱する報道から一大ムーブメントが巻き起こり、この年はまさにディープインパクトの年といえる程だった。そして、無敗のままG1の4勝目を取るために挑んだのは年末のグランプリ、有馬記念。多くの有力馬が出走する中、まだ3歳馬のディープインパクトは断然の1番人気。彼の華々しい勝ちっぷりを一目見ようと、中山競馬場には16万人ものファンが押し寄せた。テレビも、新聞も、ディープ一色だ。
「始まる前から勝負は決まっている」そんな雰囲気が日本中を漂う中、ルメールは事前の記者会見で「ディープインパクトに勝てると思います」と作戦の一部を明かした。報道陣からは驚きの声があがり、どよめき、そして笑われた。
それでもルメールは、ハーツクライと共に、あの絶対王者に勝つ自信があった。
 
レース本番。調教師から「君の好きなように乗れ」と送り出されたルメールは、スタートと共に手綱を強く押した。ハーツクライはスタートを決めると、すぐにルメールは作戦を実行する。その様子に、競馬場のファン、関係者、そしてレースを実況するアナウンサーも驚いた。
「なんと、ハーツクライが3番手!ハーツクライが3番手でレースを進めています!」
勝つためにたどり着いた作戦とは、先行策を取ることだった。今までの後ろからの競馬だと、同じタイプのレースをするディープインパクトにはかなわないと考えたルメールは、思い切って前を走って、最後方のディープインパクトから距離を取ることにした。有馬記念が行われる中山競馬場は直線が短く、最後の瞬発力勝負になったときに充分なリードがあれば押し切れると考えたのだ。
これまでとは真逆の競馬。ハーツクライ自身も驚いていた様子であったが、「いつもは最後に十何頭、かわさなければならないのに、今日はこれだけでいいんだ」と先行しているのがうれしそうで自信に満ち溢れた走りをしていた。ルメールもそれを感じ取り、不慣れな先行策にも関わらず、いいリズムでレースを進めていく。
そして最終コーナー、徐々にポジションを上げてきたディープインパクトが先頭集団に迫ってくる。スタンドからは大歓声が沸き、それを聞いたルメールも無敗の三冠馬が背後に迫っていることを感じ取った。しかし、この瞬間を待っていた。残りの距離、2頭のポジション、ここしかないというタイミングでハーツクライにゴーサインを出して加速する。メンバー最速の末脚で猛追してくるディープインパクト。最後の力を振り絞って懸命に走るハーツクライ。じりじりと迫ってくる絶対王者に負けぬよう、今までの無念や後悔に負けぬよう、ハーツに叫びながらルメールは手綱を動かした。運命の決着まで、残り100m。実況の声にも力が入る。
「外からディープ!外からディープインパクト!
ディープインパクトが捉える、捉える!
ハーツクライが来ている!ハーツクライ!ディープインパクト!
ハーツクライか!?ハーツクライか!?ハーツクライ先頭だ!
ハーツクライ!ディープインパクト!
なんと、ハーツクライだーーっ!ディープインパクト敗れる!!
ディープインパクト敗れる!!勝ったのはハーツクライ!悲願のG1初制覇ぁ!」
ゴールした瞬間、ルメールは高々と左腕を突き上げた。ディープインパクトの猛追を体半分の差でしのぎきっての勝利。ルメールの作戦、ハーツクライの確かな実力と精神的な成長が、絶対王者の不敗神話を見事に打ち砕いた。これでハーツクライはG1初勝利。そして、相棒のルメールにも、日本のG1初勝利をプレゼントした。
ついに訪れた歓喜の瞬間。しかし、ゴール直後の雰囲気は、祝福とは程遠いものだった。ハーツクライが駆け抜けた直後、一瞬の静寂の後、悲鳴が上がり、不気味などよめきに包まれるという異様なムードとなった。予想外の逆転劇にディープインパクトブーム真っただ中だった当時の人々は驚き、落胆した。「無敗の四冠が見たかった」と漏れるため息。「うまく出し抜いただけの作戦勝ちだろう」と実力を疑う声。とあるテレビ番組では、「レースをやりなおせ!」という一幕もあった。
負けなしの英雄に土を付けた、ヒール。栄光を手にしたハーツクライに、そんなケチが付けられてしまう。
だが、ルメールは信じていた。ルメールの作戦は、ハーツクライの力があったから実行できたのだ。
その強さを証明するため、次に選んだ舞台は、世界だった。
 
2006年3月。中東ドバイで行われる国際レースに参加するため、ハーツクライとルメールは海を渡った。彼らが選んだレースはドバイシーマクラシック。国際G1に指定されており、世界から多くの有力馬が集まっていた。名だたる強豪を相手に、ハーツクライとルメールは挑む。日本の代表として、英雄を破った王者として。
 スタートを決めたハーツクライは、有馬記念と同じく先行の策・・・ではなく、さらに前、先頭に立って走る「逃げ」の作戦をとった。先行争い加わった際、他の馬が前に行きたがらない様子だったため「どんな位置でも競馬はできる」と信じていたルメールは、迷わず先頭を走ることを選んだのである。
 思い切った作戦に出たことに、ハーツクライが驚いていないか気になったルメールだったが、当の本人は、コースの内側でカメラを積んで並走する車を見ながら走っていた。リラックスしていることを確認できたルメールはそのまま先頭を走らせ続ける。コーナーを回り、最後の直線に向いてからも先頭を譲らないハーツクライ。そしてゴールが近づき、すぐ後ろにライバルたちが迫る。ついにルメールはゴーサインを出した。するとハーツクライの飛びが大きくなり、力が爆発した。先頭を走り続けたハーツクライは止まらない。止まるどころか、加速している。
「ハーツクライが先頭。ハーツクライが先頭でリードは1馬身変わらない。
外からフォルスタッフ並んできた。フォルスタッフ並んできます。
その内からコリアーヒルと、さぁ3頭並んだ体制となったが!
ハーツクライが先頭だ!ハーツクライ、リードを広げたか!
1馬身から、2馬身のリードをとる!コリアーヒル、鞭が入っているが。
ハーツクライ追っている!ハーツクライ追っている!
リードは1馬身から2馬身変わらない!!
ハーツクライ先頭だ!コリアーヒル2番手、3番手フォルスタッフ!
そしてその後ウィジャボードは離れた4番手だ!
またリードを広げた!ハーツクライ!
行くぞハーツクライ!!!4馬身5馬身とリードを広げる!
2番手争いはコリアーヒルか!?フォルスタッフか!?
しかし関係ない!!! ハーツクライ逃げ切ってゴールイン!
ハーツクライやった!ハーツクライ!日本のハーツクライ!!逃げ切りました!
手が上がったルメール騎手!世界を相手にハーツクライやりました!!」
先頭のまま2着の馬を10メートルも突き放してゴール。しかも鞭をほとんど使うことなく、ルメールが促しただけで後続を突き放した独走劇。ハーツクライの圧倒的な強さが世界で証明され、ヒール扱いされていた彼が、日本のハーツクライになった歴史的な瞬間だった。
 
その後、ハーツクライは7月にイギリスのG1レースで3着。勝つことはできなかったものの、激戦で見せた走りにケチをつけるような者はいなかった。
このまま秋は日本のG1に挑み、さらに強くなったディープインパクトとの熱戦を繰り広げる。はずだった。
ハーツクライはイギリスのレースの直前から「喉鳴り」に悩まされていた。喉鳴りは、喉が狭まり満足な呼吸ができなくなる病気で、競争能力に大きな影響を与えてしまう。激しい海外のレースを乗り越えたあとに症状が悪化し、パフォーマンスを大きく落としてしまった。
11月。G1ジャパンカップ。昨年破ったディープインパクトはさらに成長して国内では敵なし。フランスから凱旋した今回は堂々の1番人気。そして、ハーツクライは海外での激闘を評価され2番人気に推される。有馬記念以来の再戦。世界で戦った2頭の凱旋レースで勝ったのは・・・ディープインパクト。ハーツクライは、11頭中10着。勝ったディープインパクトとの距離は途方もなく遠く、ハーツクライの走りは、もはや本来のものではなくなっていた。
レース後、ハーツクライの引退がその場で宣言される。栄光の道を走る英雄に打ち勝った男は、さらに大きく羽ばたく英雄を遥か後方から眺め、その現役生活を終えたのだ。
引退後のハーツクライは、今までの功績が評価され、種馬として多くのサラブレッドたちを輩出した。そして、ディープインパクトも同じ年に引退し種馬として活躍。現役時代に全力で戦えたのはあの有馬記念だけだったが、彼らの子供たちが、また数々の名勝負を繰り広げることになる。戦った者たちの意思をついで、新たなドラマは生まれる。
そして相棒だったルメールはその後も活躍し続け、ついには日本の騎手免許を所得して、日本競馬の所属となった。「彼と共に日本での私の全てが始まった。」ハーツクライとの出会いをきっかけに、現在は常に上位を争うトップジョッキーとして活躍を続けている。
種馬としての役目を終え、余生を過ごしたハーツクライは、2023年3月に天へと駆けていった。訃報を聞いたルメールは哀悼の意を表明し「Legends never die(伝説は決して死なない)」とコメントを残す。そして、同じ月に行われたG1ドバイシーマクラシックに、ルメールはとある日本馬で出走し、圧巻の勝利を飾った。後ろから追い上げる競馬をしていたその馬で、今までとは真逆の逃げ切り戦法をとっての完勝。まるであの時と同じような戦い方で、かつての相棒の旅立ちに勝利をささげたのだった。
 
あと一歩で勝てなかったところから、最高の相棒に出会い、絶対王者を撃破。まぐれ扱いされながらも、世界で戦い、その強さを証明したハーツクライ。そんな彼を象徴する、とある広告の一文を最後にご紹介する。
日本中央競馬を管理しているJRA発行の広告、「名馬の肖像」より。
「心の叫び」
ここまでの戦果に  納得などできるはずもない
幾重もの無念と未練が  心の奥底では渦巻いている
そのままでいいのか俺よ  境涯に歯向かえ 俺よ
まずは秘策を練って  渾身の力で実行に移すのだ
あの絶対王者を打ち破り  己が運命を変えるのだ
おわり


参考レース
2005年 有馬記念


2006年 ドバイシーマクラシック


おまけ 「とある日本馬」
2023年 ドバイシーマクラシック


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