籤の効用~戦争の勝者は~
籤とくじ
「籤」とかいて「くじ」と読む。読めても書けない漢字の一つだろう。音読みは「せん」。以前は「抽選」は「抽籤」、「当選」は「当籤」と書いた。
パソコンだからいいようなものの、筆記では高々1字のために23画に要する時間がもったいない。それよりもストロークが23もあるので密度が高く、判読しにくい。そこで以下は「くじ」と書くことにする。
阿弥陀くじと宝くじ
身近なくじで言えば阿弥陀くじと宝くじが有力であろうが、まず阿弥陀くじから。
学生時代コンパをするとき、例えば参加者5人の菓子類の総額を1000円として、500円、300円、200円そして買い出し(労力提供)を決め、残りの一人はお金も労力も提供しなくて済む設定をしたものだ。500円に「当たった」人が駄々をこねたりすることはない。そこは割り切りである。今様に言えば「次回のリベンジを期す」のである。しかし、くじに個人の努力は及ばない。当たるも八卦当たらぬもである。このような阿弥陀くじでは、禍福の差は小さい。
宝くじはどうだろう。小生の場合、大当たりが1万円で3回くらいある。ある資料によると、年末ジャンボ宝くじの場合1等当選確率は2,000万分の1だそうだ。禍福の差は大きい。しかし、外れたと言っても身ぐるみ剥がれるわけではない。福は大きいが、禍はくじを買った金が戻ってこないというだけのことである。
阿弥陀くじは、これはゼロサムゲーム(zero-sum game)であるから、多くを繰り返せば大数の法則(law of large numbers)によって、参加者全員が等しく200円の負担をすることになる。他愛のない単なるお遊びの域を出ない。
宝くじは阿弥陀くじ同様に個人の努力は及ばない、100%あなた任せのお遊びであるが、これも大数の法則によって、最終的には参加者全員が損をすることになる。
両者の相違は、胴元がいるかいないかである。どんなギャンブルも儲けるのは胴元だけである。
換言すれば、胴元が儲けた分だけ、参加者は損をするのである。
期待値は、競馬の場合で80%(単勝、複勝の場合)、競輪は75%しかない。宝くじはひどいもので、50%未満であるから、1万円でくじを買っても5000円も戻ってこないことになる。
悪どいギャンブルではないか。
保険
保険はどうであろうか。保険の仕組みを考えればすぐに分かる。万が一に備えて参加者で保険料を払ってプールしておく。誰かが不幸に見舞われたときにそのプールしておいた保険料から保険金が支払われるのである。保険金を受け取った人は不幸に見舞われたとしても、保険金には見舞われる。受け取れなかった人は、安心料だったと納得するしかない。それが嫌ならば保険に加入しないことだ。料率も保険会社が損をしないように設定してあるので、保険会社の経営は盤石である。
一枚しか買わなかった宝くじで1等が当たることもあろうし、1億円の保険料の支払いが済んだ途端に交通事故であの世行きという場合もあるだろう。こういった場合は、上手く行ったというだけで、このような果報者は世界中にいる。いるが、絶対的少数者である。
繰り返すが、どの場合も胴元を含めれば全体でゼロサムである。
株
株はどうだろうか。株式は「非ゼロサム」と報じる資料もある(証券会社のプロパガンダ)が、手数料で儲ける証券会社は儲けるが、売買参加者はやはり損をするのである。そういう意味で非ゼロサムだろうが、証券会社という胴元を含めれば、はやりゼロサムである。
しかし、ウォーレン・バフェットのように天文学的資産を有する人もいるではないかと反論する向きもあろうが、バフェットが儲けた分だけ他者は損をしているのでトータルで見るとやはりゼロサムである。
負け惜しみ
宝くじを買う人は異口同音に「当たらないよな」と言う。当たらないというのは当たる確率が0ということだから、端から買わなければいいのである。しかし、人は宝くじを買ってしまう。宝くじで確実なのは「買わなければ当たらない」ということだけである。面白いことに、買っているところを知人に見られると照れ隠しに「当たらないよな」という。この心理はどういうものだろうか。当たる確率は限りなく0に近いが、当たると大きい。つまり、一攫千金に賭けているのだろう。そういった山師的な行動をさとられまいとしているのだろうか。
宝くじでハズレた人はこういうのである。「夢を買ったのだから」とか「福祉に役立つと思えば」とか。
切ない負け惜しみである。
恨みっこなしが原則
阿弥陀くじで損な役回りが当たっても文句を言う人はいない。同様に、宝くじで外れたからと言って売り場窓口で悪態を付く人もいない。
すなわち、くじには「恨みっこなし」の原則があるのである。
このようなくじに、果たして効用はあるのだろうか。
足利将軍
鎌倉6代将軍、足利義教はくじ引きで将軍となった。
少し詳しく見ていこう。
3代将軍義満の死後、長男義持が4代将軍となった。28年余り将軍職に就いていたが、将軍職を長男義量(よしかず)に譲り、出家し道詮(どうせん)と号した。
ところが義量は酒で身体を壊し在位僅か2年足らずで亡くなってしまう。(享年19)
義量には子どもがいなかったので、次の将軍職は義持が後継者氏名をしなければならなくなったのだが、義持はそれを拒む。その理由は、義量が急死したときに、義持が石清水八幡宮でくじを引いたところ新たに男児が生まれる、と出たからだと言われている。つまり、弟に将軍職を継がせるよりも実子に継がせたいと希望を託したのである。義持はまだアラフォー。可能性はあったのである。
困惑した幕府の重臣たちは、解決策としてくじ引きで決めることを提案する。
当初義持は自分の死後にくじで決めるように言い、そしてくじ引きの結果、義教が将軍の後継者になった。つまり、義持の夢は叶わず義量の死後2年でこの世を去っている。
義教が将軍職につくまで約4年間の空位期間があった。
くじ
くじは2回登場している。
1回目は、義量が急死したときの石清水八幡宮での御託宣である。これは見事に外れた。
2回目は、義持の就任である。これは吉凶の判断はできない。
考えても見よう。義持の就任前に4年の空白期間があるのである。
結局のところ、将軍職はなくてもいいし、あっても誰でもいいということを示しているのではないか。
聖書に次の一文がある。
「くじはいさかいを鎮め、手ごわいものどうしも引き分ける」(箴言18.18)
これをわかりやすく言うと、
「いくら言い争っても解決しないときは、くじで決めなさい。そうすれば丸く収まります。」(リビングバイブルJCB:Japanese Contemporary Bible)
イスラエルvs.ハマスも、ロシアvs.ウクライナもくじで決められないものだろうか。
戦争特需で儲ける国や企業がいても、損する国や企業がある。これだけとらえればゼロサムだが、環境破壊、尊い人命の喪失を考えれば、戦争に勝者はいないのだ。