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『三宅雪嶺人生訓』四
https://dl.ndl.go.jp/ja/pid/933730/1/19
〇獅皮よりも驢鳴
口を開けば愚を知らるれど、愚なる者が愚を掩へるとて能く何をかせん、獅皮を被りて沈黙し、以て衆を欺くは、驢鳴して相応の荷を負ふと孰れぞ。
【現代語訳】
〇ライオンの皮よりもロバの鳴き声
口を開いて何かを話せば、その人間が愚かであるかわかるが、馬鹿な人間が自分の愚かさを隠そうとしてもどうしようもない。ライオンの皮を被って沈黙し、周囲の人を欺くことと、ロバの鳴き声によって本性がバレることで相当の苦労をするのと、どちらがよいだろうか。
【補説】
イソップ寓話の「ライオンの皮を着たろば」を踏まえる。
雪嶺はその寓話を一歩進めて、大著『宇宙』の序に当該文を載せた。
その序の末尾にはこうある。
「尺も短き所あり、寸も長き所あり、愚者の眼よりは、愚者も智者も各々一得一失、愚の及ぶ可らざる猶ほ智の及ぶ可らざるが如し。愚も斯く心得るに至り、遂に救ふべからざるか、救はれざるを厭はずして眞に愚の愚たるを見るべきか。愚者の甚しきは世間に多からず、其の多からずして到る處大智中智小智の智を磨きつゝあるを慶賀すると共に、時に一層愚なる者の出でんことを望む。」
「愚」や「大智中智小智」は『論語』陽貨の「上知と下愚とは移らず」による。
世の大半の人は上知でも下愚でもない、その間の中人で、その多くは「大智中智小智」を目指して努力する。
末尾に「時に一層愚なる者の出でんことを望む」とあるのは、自虐自嘲を込めた表現に見える。
ただ、自虐自嘲は単なるひねくれではない。
自虐自嘲は健全な批評精神の表れである。
また、表面上の矛盾を相対的にとらえ、渾一的に哲学として昇華する、雪嶺らしい考え方ともとれる。
化けの皮が剝がれるのを恐れて、沈黙は金の態度を保つか、敢て虚勢を張ってまで苦労するのがよいか。
『宇宙』という哲学的著作を世に出した雪嶺は、「驢鳴」を選んだと言えよう。