3.11

皆さん、こんにちは。
むすくん。です!!

久々の投稿になってしまいました。
今日で、東日本大震災の発生から丸9年。
時が過ぎるのって、本当に早い。

皆さんは、9年前、どこで何をしていましたか?

僕は、地元・千葉県でコンサートの仕事をしていました。
当時は、外にいて揺れは感じなかった。
でも、近くを走る電車がキーっと音を立てて止まった。
最初は事故か何かかなと思ったんだけど。

そのあとにすぐに大きな揺れを感じた。

実際には経験したことのないような揺れだった。
近くにある、大きなガスタンクが今にでも落ちてきそうなぐらい
揺れていた。

今でも、その光景は忘れられない。

ホールの最前列の天井は、揺れで崩れ落ち、鉄骨が客席に刺さっていた。
本番中だったら、どうなっていたんだろうか…。

すぐに、対策チームが立ち上がった。

僕は、情報収集班に。

すぐに車に乗り込み、ラジオをつけた。
同時に、ポータブルナビのワンセグ、携帯のワンセグ
情報ツールとして使えるものはすべて電源を入れた。

目と耳から入ってくる情報は、とてつもなく膨大で
衝撃的だった。

時間が過ぎるにつれて、刻一刻と衝撃的な情報が入ってくる。

津波警報発令…そして、津波の映像。

当時から、僕の兄(次男)は仙台に住んでいた。
正直、昔から兄貴のことは好きじゃなかった。

三人きょうだいで、末っ子の僕。

次男君には事あるごとに、いろんな嫌がらせをされてきたからだ。
パシリなんて日常茶飯事。
ついでに、好きなもの買ってきていいよと言われたりもしたけど、
嫌いだった。憎んだ時期もあった。

でも、そんな嫌いだった兄貴のことが真っ先に浮かんだ。

やっぱり、家族なんだな。

そう実感した日でもあった。
無事の確認が取れたのは、発生から2日後のこと。
あれだけ嫌いだった、兄貴のことなのに、涙が出た。

犠牲になられた方がたくさんいる中での報告に、ほっとしたことを覚えている。

まだ9年なのか、もう9年なのか・・・。

縁があり福島へ

去年の6月のことだった。
知人のIさんに誘われて、福島原発20km圏内の視察旅行へ行ってきた。

ほんとにたまたまだった。
まだ参加できるよ?来ない?
そんな一言で、急遽前日に参加を決めた。

復興復興と言われながらも、まだまだ8年前と変わらない姿の街中を車窓から見た…。

海の近くで変わっていたのは、原発事故前にはなかったフレコンバックの山。

壊れたままで、バリケードの向こう側にある建物。
浪江町から避難を余儀なくされた方のお宅にも伺った。

必要最低限な物だけを持って避難した後、
家に帰れることができなくなったという。

8年が過ぎても、当時のまま残されていた。

食器、洗濯物、おもちゃ、すべてが当時のまま。

そんな、彼の家は今年取り壊されることが決まった。
ギリギリまで帰りたいと願っていたという話も聞いた。

一方で、きれいに直された場所も見てきた。
あの日のことが嘘かのようにきれいだった。

飯館村のお母ちゃんたちにも出会った。
彼女たちは、笑ってた。いい笑顔で。

悲しいことはあったけども、ずっと泣いてはいられないと。
本当に面白いお母ちゃんたちだった。

あれから9年…。いつも、この日に思うこと…。

いま、いきていることにかんしゃ。

この9年の間、死にたいと思うこともあった。
消えたいと思うこともあった。

特に6年前はね。倒れて入院した時に3日間も生死の間を彷徨っていた。
目が覚めた時から、頭が痛い状態が1か月も続いた。

仕事もクビになったし。
生きていても…。なんてことも思った。

でも、あの日あの時に亡くなった方のことを考えたら
自らなんて、考えてはいけないなと思った。

今できることを、精いっぱいやるしかない。

とにかく、できる限り長く生きるって改めて思う。

最後に…。
乱筆乱文失礼しました。

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