この世は思い込みでできている 意識探究への道④
他とは全く違うコミュニティ
その場所について知ったのは、安曇野のシャロムヒュッテ、そして直接かかわりを持ったのは戸隠で百姓見習いをしていた時のことでした。
日本のあちこちに、パーマカルチャーや自然農を実践するコミュニティや、トランジションタウンというものがある中で、そこの存在は非常に異質に映りました。
そのコミュニティの名はアズワン。三重県の鈴鹿にあるのですが、拠点があるのは街の中。周縁部に畑があったり、弁当屋さんをやっていたりというのがある他はコミュニティ?というような感じだったんです。
実際に見学に行って畑や弁当屋を見せてもらっても、何が取り立てて特別ということもなく、何町歩とやっている田んぼも、当然ながら機械化されているもの。見学ではよく分からなかったので、5泊6日のアズワンセミナーというものに参加してみることにしたのでした。
アズワンセミナーでの体験
プログラムは、三食昼寝付?で一日中色々なことについて話をするというもので、お互いを鏡として意識の深いところへ降りていくというものでした。単純なもので行くと、自分の目や耳というのがいかに信用ならないものであるかということを体験を通して確認していくというものなどがありました。
特に印象に残っているのは、「怒り」について探究した時の事。実際に起こった出来事を時系列に書いていくんですが、起こった出来事の隣に自分が何を感じていたかを書いていくという作業がありました。
実際に起こっているできごとは○○さんが△△と言ったとか、XXしたといった単純な事柄なんですが、出来事に付随して自分の中で勝手にこうだと決めつけたり、イライラを募らせたりしていることが分かってくるんです。
感じていることを見ていくと、○○するべきなのにしてくれないとか、△△って言われて傷ついたといった描写が並んでいます。そして、それらは自分が持っている正しい・間違っているといった観念や、XXされるんじゃないかといった怖れが、勝手に脳内劇場を創り上げているということに気付いてきます。
人間というのは、自分がしていることには間違いがないとか、正しいと思いがちですが、そもそも聞き間違いとか事実誤認は日常茶飯事だし、そんなに信頼できるものではないのです。
さらには自分が持っている観念に基づいて色々と解釈を付け加えたり、傷ついた経験が反射的なパターンをつくってしまっていて、起きた事はなんてことない出来事なのに、それを元に脳内で作り出した劇場の中で、怒りを募らせたり悲しみに沈んだりしていることに気付いてきました。
自分の観念が崩壊する瞬間
そうやって様々なことを見ていきます。例えばなぜ玄関で靴を脱がないといけないのかとか、目の前にあるコップは本当にコップなのか?それを自分で作るとしたらどれぐらいの資源が必要になってくるかとか、色々観ていくことで、自分の認識の仕方が事実と異なるものを創り出していくことに気付いていきます。
それらを経て、自分がこうだと思ってずっと持ち続けてきた信念のようなものが、ガラガラと音を立てて崩れ去る瞬間がやってきました。自分は小学生の頃から環境のことに興味を持ち、それに関わることをずっとやってきたのですが、そこにあった大きな観念に気付くことになったのです。
それは、環境にやさしいこと=正しいというもの。つまり環境に悪いことをしている人は「ダメな奴」ということにしているということだったんです。言い換えれば、環境のために行動している自分は「正しい」ということになっていました。
これは他のテーマだったとしても同じですね。平和運動でも、反原発でも、政治活動でもなんでもそうです。自分がやっていることは正しいので認めてくれという意識がその背景に隠れていることが多いです。スポーツや他の偉業なんかも、自分がすごいと認められるがためにやっているケースが殊の外多かったりします。
自分の場合、元になっていたのは親に認められたいという承認欲求でした。90点台の答案を持って行っても、次は100点なと平気で言う親だったので、自分がどこまでやればできているのか分からず、どこまで行っても自分を認められない、完璧主義者になってしまっていたのです。
自分はできるんだということを証明するために、タイに留学し、その後も南スーダンやパレスチナなど途上国のしかも危険だといわれるところに出向いて仕事をするというのをやってきていたのでした。
そのことに気が付いた時、「いったい自分は何をやっていたんだろう」という気持ちになったのを今でも思い出します。自分がこうなんだ!と思っていたものが音を立てて崩壊していくのを体験した瞬間でした。
人の行動を支配するもの
さらに深く観ていくと、人の行動を支配するものの存在について気付いていきました。Fight/Flightの回でも書きましたが、人の行動の多くは怖れに基づいているということです。
自分の反応の出方はFight(闘争)ですね。自分を認めてくれない親に対して反抗し、認めさせるために色々な行動に走っていました。知識を得ようとしたのも、そうすれば周りに馬鹿にされたりいじめられたりしないだろうという怖れが原動力になっていたんです。
逆にFlight(逃避)に出るケースもあります。これは、例えば女の子のグループがあって、仲間外れにされないようにするために、自分の意に反して仲が良い振りをするとか、場を乱さないように同意するようにするといった行動を取るといったものです。
これも、仲間外れにされるという怖れがあるので、そうならないように周りに合わせて行動するという意味では自分の本来性を生きているとは言えません。日本人の多くは、「良い子になりなさい!」と言われて育つので、周りに過度に合わせるということをしがちですが、これはその人の本心ではなく、処世術的な対策に過ぎません。
そういうことをして自分をカバーアップし(取り繕い)本音で生きることをしない人が多いことと、地震や凄惨な事件とは連動しているんですが、そのことが分かっている人は残念ながら多くはありません。
観念が創り出す世界
そういったプロセスを経て最終的に行き着いたところは、この世界というのは幻想だということでした。人々があると思っている様々なものというのは、それをそうだとしている人がある程度の人数いることで成立する共同幻想だということなんです。
例えばお金。狩猟採集生活をしているアマゾンの奥地の村に行って札束を渡しても、火を起こす材料ぐらいにしかなりません。それは、お金というものがこういうものなんだということを認識している世界でしか通用しないものなんですね。
なので、そういう認識がある世界では、紙の束のために人を殺すといったことが日常茶飯事に起きることになります。アマゾンの村ではそんな訳の分からないことは起こらないのにです。
つまり、そういった創り出された概念、観念によってこの世界というのは動いていて、決してそれは絶対的なものではないということなんですね。そうだとしているものの例としては、結婚、会社、学校、お金、法律、上司、ルール等々枚挙にいとまがないほどです。
人々はそういったフィルターをかけて世界を見てるので、実際に「相対する人」がどうかとか、「本当」はどうかといったことにまるで注意を払っていないということが分かってきました。
ユヴァル・ノア・ハラリが『サピエンス全史』の中で、こういった想像力が社会を発展させてきたと述べていますが、そういう面はありつつも、実際にはこういう共同幻想に振り回される人達ばかりの世界を創ってしまったということも意味しているんです。
そうなってくると、観念という檻の中で生きていきたいのか、あるいはそういうものを超えて「人と人」の関係で生きていきたいのかということになってきます。そういう意味では、真の自由とは何なのかを探究していると言っても良いかもしれません。
自分自身、物事の見方自体を問い直すこういう機会を得たことで、自然農やパーマカルチャー、タイに家をつくるといった行動の動機になっていた大きな部分に、「自分自身のサバイバル」というのがあったことに気付かされました。つまりは「生き残らないと!」という怖れということですね。
皆さんも、自分の今取ろうとしている行動が、どんな意識に基づいているのか、観てみてください。それが大きな転換への第一歩になると思います。
最後までお読みいただきありがとうございます!