自然にスイッチが入ってしまうこと。
朝起き抜けに、なんとも言えない波が押し寄せてくる時がある。何かの境目だからかなーって感じたりすることも多いんだけど。すると、その質感とよく似た現実をひも付けようとする思考が立ち上がってくる。自然にそれが起こる。私はこの感じを眺めていて、なんか違うなーって思うことが多いんだ。自分を責めようとしたり、何かに追い立てられている感覚になったりする。焦燥感。罪悪感。あーー!(また?)やっちまった感。その時は深刻な人がそこには居るんだけど。こうやって書いてみるとあれはなんだったんたんだ??ってなる。自分劇場はおもしろい。
まぁ、今朝もそんな感じになったからさ、そこに居座って漂って、その言い分を聴いてあげようとしたよね。まぁまぁ嫌なキモチを味わうということをわざわざすることになるんだけど。キリがないからある程度付き合ってからやめーーた。そしてそのあと、今日の動きが観えてきたんだよね。さぁ、それが全部叶うかどーかわからんけど。ちょっとアクティブな日になるかもしれん。
んでんで、このモチャモチャって自分だけのものじゃないような感覚もある。どこかの誰か、身近な誰か、もっとひろーーい世界を捉えているのかもしれない。まぁ、今のところはそんな感じ。
やっぱりアクティブな日だった。私にしては。私はここ数年はエコに生きていて前にくらべたらかなり制限してきた。人も情報も予定も行動範囲も。その感覚も少しずつ移り変わる予兆は感じてるよね。仕上げにコロナがトッピングされて満喫させてもらってる。
年越し用につくった輪通し、どんと祭で火に投げ入れてきた。この輪通しは去年作ったお米の稲藁。価値ある資源をこうして使い切ること、いのちがまっとうしていくプロセスに関わることには自然にスイッチが入る。使い切るから価値ある資源になるのかな。まぁどっちでもいいか。手しごと、保存食づくり、発酵とかも好き。
正月飾りは家の主(あるじ)、男性がつくるものなんだよって聞かされた。家に男性がいないお家はどーすんだよ?って思ったよね。輪通しもスーパーでいっぱい安く売ってるけど作ってみたくて。作り方ネットで検索して、でもあんまり出てなくて。しめ縄はいっぱい出てたけど。あれー輪通しって全国共通じゃないのかもね?って気付いたり。スーパーで売ってるようにはどうしてもできなくて、最終的には輪っかになってればいいか?!と、、とはいえ自分なりの美しさにはこだわりつつ、それ風に自分オリジナルで作ってみた。
伝統的な正しさはそこには無いものになったけど、田植えをしたあの日から稲藁になるまでの日々の時間が愛おしいし、この形をつくる時間もまたありがたくて満たされた。こめられている時を感じられるしあわせってあるよね。大切にしたいことだなぁって感じた。
火の山にポイっと投じたあの瞬間の映像が、私の中に色濃く焼きついている。これっていつまで色鮮やかに思い出されるんだろうな。