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家族であること

家族であり続けるというのは、子供の時には当たり前のことで、どちらかというとめんどくさい縛りや因縁のようにも感じた。わたしは子供の頃、家族の中でまさに浮いた存在だったので『家族』という集まりは本当に不思議なものに思えた。

しかし今は自分の家族を持つようになり、家族の中心を担っている。もちろん大黒柱である夫が真ん中にいるわけだけども、その横に位置するわたしがムードメーカー的存在になり家族を繋げている。つまりわたしは家族にとって『いなくてはならない』存在であり、そのためには元気でいることがいちばんだ。

これは本当に家族の母親になった人にしかわからない感覚だと思う。きれい事ではなく、実感として『必要とされている』ことがわかるのだ。だから自分を大事にしなければならない。

もちろん、家族の一員として認めてもらうためにしなくてはならないことが幾つかある。わたしは持病があるので他の人と同じように家事をこなすのが難しい。なのでそれを家族で分担してもらっているのだけど、だからと言って何もしなくていいわけではなく、体調のいい時には普段できないでいるお母さんらしいことをしたくなる。

お母さんらしいことというのは色々あるけれども、子供に愛情をかけてあげるのが大切で、それは体力を使うことでは無いので普段からできることはやるようにこころがけている。やれるだけやっているという自負があるのでこれ以上は体調がよくてもしてあげられない。

わたしの考える『お母さんらしいこと』は、たとえば子供の好物を作ってあげたり、ちょっとした縫い物をしてあげたりすること。そういう母親だからこそしてあげられることというものがあって、それをしてあげられるとこっちの心もほっとする。充足感がわたしを包む。なんでいつもできないんだろうと思うと悲しくなるし、病前には当たり前にできたのになぁと思うともっと悲しくなる。

ほんとうは料理も縫い物もすきで得意だし、子供が家を出るまで、もっともっとたくさん与えてあげたいといつも思っている。子供のためになにかを作ってあげるのは本当にしあわせなことだ。病前もそう思ったし、できなくなった今はもっとそれを強く感じる。

そういうわけで家族でいるためにいちばん必要なことは、料理や縫い物をしてあげて家族を喜ばせることでもあるけれども、それ以前に元気でいることだ。

よく言われるのが「お母さんが元気じゃないと家族も元気になれない」ということ。わたしの立ち位置はたぶん、ここに居続けることにあるのだと思う。

元気のあるうちにはなかなか気がつかない事だけども、いるだけで意味があるということの重みを感じて生きている。責任重大だ。

念の為に言っておくと、癌などの死に直面した病気ではないので心配しないでください。たぶんまだまだ生きるんじゃないかと思っています。子供を残して迂闊に死ねないので。夫は大人なので別枠で。

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要するに、家族以外の居場所が今のところ『小説』しかないのだ。あまり出かけられないので友人と遊んで歩くこともできず、家にひとりでいる時間が長い。そして持て余したエネルギーを小説に注いでいるというわけです。


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