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言葉の伝える『空気感』

わたしが今年最初に買った本は川端康成の『掌の小説』だ。この本には川端康成の書いたおよそ120篇の掌編が収録されている。

実はむかーし、むかし、高校生のときに買って愛読していたのだけど、度重なる引越しの末、紛失してしまったのだ。表紙が擦り切れるくらい読んだのに内容は覚えていない。

不思議なことにわたしには一度読んだ本や映画の中身を覚えていることがほとんどない。冗談抜きで。お陰様で次に見た時、読んだ時もドキワクなんだけども腑に落ちない。どうして忘れちゃうんでしょうね? 本当に不思議。

川端康成である。高校生の時に部活の先輩が『雪国』で読書感想文を書いた、と聞いて読んでみようかなと思った。『伊豆の踊子』ではなく『雪国』。それで読んだのだけど……。

話の肝がわからない!

しかし相手はノーベル文学賞だ。きっと何かあるに違いない……。そう思って考えてみると、なるほど、この話の肝はこれ、という誰が見ても明らかなものがなくてもいいんだ。例えば『少年時代の輝かしい時』とか『いちばん悲しかった話』とか、そんなような一言で表せるようなツボがなくてもいいんだ。

ということでわたしの中で川端康成は『日本を言葉で表した人』という位置づけにいる。本も絵画のように肌に感じる空気感みたいなものを表現することがあるのだな、と理解した。正しいかどうかはわからない。何しろ当時何作か読んだ川端作品のほとんどがうろ覚えなので。

同様に谷崎潤一郎も好んで読んで、うろ覚え。しかし谷崎も要約すれば日本の美を表現した人だ。耽美主義というところばかりがクローズアップされているが、谷崎の書く日本は美しい。

それでそこで自分なりに学んだことが役に立ったのは大学の英語の授業。アーウィン・ショーの『夏服を着た女たち』をテキストとして扱っていた。当時わたしは訳あってあまり良い学生ではなかった。講義も休むことしばしば。しかも英語が特に優れてできるという訳でもなかった。

が、学期末テストで『夏服を着た女たち』が出された時、最後の問題が『この文章が何を表しているのか……』というようなものだった。難問である。なにしろ理系学部だったので文学に疎い子ばかりだった。わたしも心の中で「えー、そんなの授業でやらなかったじゃん」と思っていた。それで考えた。なんでもいいから書こう。「ニューヨークの夏の気だるい空気を」みたいなことを書いて丸をもらった。わかんないと思いつつ、自分で考えたことがビンゴだった。その問題は減点なしだった。解答用紙を配った先生が微笑んだ。

という訳で、例の『川端問題』のお陰で助かった。その問題の配点がものすごく高かったからだ。おそらく先生は文学寄りの英語講師だったのだろう。クラスでいつも優秀な成績を取っていた子がわたしの点を知って、「納得がいかない」と怒ってしまったのが忘れられない。仕方ないじゃん、だってわたし、隠れ文系だもん……。

つまりまとめると、文学というものは頭で理解するだけではなく肌で感じることも大切だということ。そしてわたしはそれを、川端康成と谷崎潤一郎から学んだということ。肌で感じられるようになると、同じように感覚を大切にした作家の作品は多少、読みにくくても読めるようになる。例えば泉鏡花とか。

文学って不思議! 言葉が空気を表現するなんて。

これを自分でやろうと思うと大変だ。肌感覚が問われる。季節や天気、または場所や時間ごとの肌感覚が問われる。書く度に同じようなシチュエーションの時に自分がどんなふうに感じたのかを思い出さなくてはならない。これは空気感の記憶を思い出す、というちょっと変わった作業。

そして、思い出した感覚を今度は読者に伝わる言葉に変換していく。水の一雫が水面に落ちて波紋を描くように、言葉で空気を伝える。

もちろん今のわたしがそれを満足にできているとは思っていない。常に修行中の身だ。そしてそういうことは文芸講座では教えてくれない。学校ではもしかすると習ったかもしれない。ただ「暑い」と書くより「アイスが溶けた」とか。要はそういうセンスが必要だということ。

『センス』は日本語に直すと『感覚』だ。天才的な語彙力とかではないと思っている。(語彙力至上主義の方には申し訳ないけれど。)だって、「アイスが溶けた」の中には「アイス」と「溶けた」という誰にでもわかる簡単な単語しか使われていない。でも「暑い」ということは伝わる。「日差しが強かった。暑い。」と書くより、「日差しが強かった。アイスが溶けた。」と書く方がより感覚的で、おそらく文学的だ。

自分の小説は執拗に季節描写などが多いと思っていたけれど、たぶんそういうことなんです。自分が感じたことを、読み手にも同じように感じてほしい。「月波さんの作品はじわじわ来る」とか言われるとすごくうれしい。「ここがこんなふうなところがよかった」と言われるのもうれしいけれど「じわじわ」なんて感覚的な言葉で表されるとうれしいではないですか? うん、「じわじわ」はいい。

そんな訳でまた川端康成を読んで復習します。内容は覚えていないので楽しめるし、今は文章の研究もできる。誰だ、地の文が多くないと純文学じゃないと言ったのは?(誰もいないかもしれない。)川端作品にも「」ばかりが続く頁がある。会話文の多さで悩むことはもうやめようと思う。要は必要か、適切な量であるか、だと思う。徒に文学的であることを目指して地の文を無理に増やすのはやめにしよう。(でも先生に「地の文増やせ」と言われたら逆らえない。)

今年の目標、プラス1。『空気感』を表現すること。

やっぱりノーベル文学賞を取るだけのことはあるんだ。川端先生、ありがとうございます。これからもリスペクトだ。

さて、自作の宣伝をさせてください。あんなに書いてなんですが、この作品はあまり実は肌感覚を特にテーマにしてはいません。が、読者さんからいただいた『ミステリアス』な空気が流れているようです。『カクヨムコン』応募作です。1頁だけでも読んでもいいよという方、ポチッとお願いします。

念の為に書くと、恋愛小説のつもりで書いています。

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