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死ぬということ

『死』というのは、実際に身近で目の当たりにしてみないとわからないものだとわたしは思っている。勿論、完全に『死』を理解することなど誰にもできそうにないけど。

わたしは生物学をかじったので、『死』は生物的な死。身体が、器官が、細胞が動くことのできなくなった状態が『死』だと捉えている。

21年前、ちょうど今くらいの時期、わたしの結婚式の2ヶ月後、実父が突然亡くなった。といっても持病持ちで、きちんと通院してなかったので自業自得である。父はわたしには子供の頃から死ぬまですごく甘くて、砂糖菓子みたいなひとだった。死の前日も「雪が降ったけど困ってないか?」とまめに電話をくれた。

そんな父が亡くなる前に、お正月に初めてすべて手作りしたお節を持っていった時、喜びながら「父さん、もうすぐ死ぬかもしれない」とボソッと言った。腎臓が悪いこと、リウマチがあることは聞いていたけれど、直接『死』と結びつかなかった。

結局、その日が父と会った最後の日になった。残念ながら死に目に間に合わなかった。それでもわたしと父との間には特別な繋がりがあったと信じているので、父が怒っているとは思っていない。

先日、夫の職場の方が亡くなった。夫は親戚のひとは亡くなったことがあるが、本当に近しい人が亡くなるのは初めてだったのだと思う。その日の朝まで生きていた人が(具合が悪いと早退したらしい)突然、亡くなってしまったことに大きく動揺していた。

生きる、と、死ぬの間には脳死は別にしても線引きがある。死んだひとは帰ってこない。二度と笑顔を見ることができない。

わたしは多分、ほかの人より多く、死んだひとに枕元に立たれるのだが、死んだひとはどんなに機嫌が良さそうでも話さない。滅多なことでは口をきかない。これはわたしの母も言っていた。生と死の線引きだ。

どんなに泣いても後悔しても、その線を越えた人とはもう会うことはできない。死は残酷であると共に、平等だ。誰の上にも訪れ、誰にも覆すことはできないからだ。

自分の死について考える。

誰もがなんだかんだ言っても、死ぬということに恐れを抱いていると思う。でなければ「死は恐ろしいことではありません」というセリフは出てこないだろう。怖い。でも考える。1本の、チョークでアスファルトに引かれたような直線を越えるだけのことだ。体はそこで止まる。

むかし大学の教授に生命についてどう思うかと言われた時、小さな受精卵ができていのちが生まれることに神秘的なものを感じると、友だちと目を輝かせて熱く語ったら「神秘なんて言葉を使うようじゃ科学者にはなれないよ。要はすべて化学反応だ」と言われた。言わなかったけど、その友だちとはいまだに付き合いがあって、お互いに教授のあの発言には大いに失望したのだと思う。入学して直ぐに失望。

しかし確かに生命活動というのは化学反応の連鎖で起こっているのは確かだ。父も、夫の知人も、体内での化学反応が引き起こされなくなった結果、死に至ったのだろう。

そこにいた人が、いない。

化学反応なのか、それとも神秘なのか。皆さんはどう思いますか?

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