じぶん物語vol.3〜はじめの一歩〜
震災後、もともと
組まれていた仕事でのシフトは
一度ばらされて、またあらためて
シフトを組み直した。
調理室はつかえないので、
体育館のちかくの部屋をつかい
カセットコンロで
市から供給された限られた食材で
頭をつかって
その日そのひのメニューをつくる人が考える。
普段は栄養士さんが考えた献立に合わせた
食材が届き、それに沿って調理師が
つくってゆくのだけど
そうもいってはいられない。
限られた食材をつかって
いつものように何品もあるわけではなく
麺物だけのとき、おむすびと汁物のときなど
いつもに比べたらぐっと少ない食事だった。
電気はたしか
早めに回復したので
家でも電気調理器をつかって
あれこれ工夫しながらつくっていて
その工夫も楽しんでいて
いつものように食べられないのは
仕方がない。そのなかでも家でも職場でも
みんな、精一杯にあるもので工夫をこらして努力をしていた。
施設は
市で運営されているので
食材はまんべんなく。というわけではなかったけれど
毎日のように届いていたように、思う。
だけど
トマトが10箱とか届いたりして
驚くこともあった。沿岸部の人たちに
食材が届いていないのなら、分けてあげてほしい。
近くのようで、とても遠い。
なにかしたいけれど、どうしていいのか
わからない。そんな想いを胸にいだきつつ
まいにち、目の前の食事をつくることに心をこめた。
そんな中
だんだんと、不満の声が聞こえてくるようになった。
職員さんから子どもたちが、
これだけしか食べられなくてかわいそう。だとか
子どもが、飽きた。だとか
ちかくで
たべものがなくて
困ってる人たちがいるというのに
こんなことをいっている人たちに
わたしはごはんをつくっていていいのだろうか。
そんな気持ちが湧いてきた。
その想いはどんどんどんどん日増しにおおきくなって
一度、連絡がきた
調理の専門学校のときの年上の同級生に
(夜間部だったので、16歳〜60代の方までいろんな人がいた)
沿岸部にいきたいとおもっている。とはなすも
危ないからやめたほうがいい。といわれる
母にはなすも
お願いだから、じっとしててほしい。
そんなことをいわれたようなきがする。
仙台から沿岸部へと
高速バスが走りだしたようだ。
でも、遠方から仙台経由で
実家や地元の家族に会いに行く人たちも
たくさんきはじめているだろうから
必要な人に乗ってほしい。
自転車で、いこうか?
でも、道がガレキとかでどうなっているかわからない。
なにか、したい。なにか、沿岸部の人たちの
チカラになりたいけど、どうしたらいいんだろう...。
必要とされているならまだしも、逆に行って迷惑だろうか。
布団のなかにもぐって、声を殺して泣いた。
いつも、そうだ。
じぶんがしたい。とおもったことを
周りに反対されてしないで、しまう。
また、
同じことを繰り返すの?
誰かがちかくで苦しんでいるのに
なにも、せずに。
やっぱり、なんとかしていこう。
そして、
おむすびを結んでもっていこう。
なにをどうしていいか
どうなるのか、わからないまま
とにかく、行くことを決めた。
はじめの、一歩だ。
そのとき、携帯電話がなった。