人の言葉にモヤること
先日、人権同和の講演会が私の学校で行われた。
海外の差別に対する敏感さや、被差別部落出身の方に向けられる差別があることなどの話を約100分聞いて、物事への意識が大きく変わった。
二つ、特に印象に残ったお話、それについてクラスメイトが言っていてモヤっとしたことがあった
「スタート地点の違い」
陸上のトラックのスタート地点に、二人の人間が立っているイラストが出される
「今から言う条件に当てはまると思った人は、心の中で一歩前に出てください」
両親から宿題を教えてもらったことがある人、家の電気やガス、水道が止まったことのない人、専門学校や大学にいける経済力が家にある人、塾に行っている人、その送り迎えを家族がしてくれる人、被差別部落と呼ばれていた地域に生を受けていない人人、自認する性と体の性が同じ人
十を超える質問が投げかけられ、イラスト左側の人だけが一歩ずつ前に進んでいく
全て終わった時に
「はい、じゃあヨーイドンってした時に、右の人は左の人に勝てますか?ミラクルがない限り、左の人が転んでしまうとかない限り、右の人は勝てませんよ
生まれた環境だけで、こんなに違ってくるんですよ
そして、今の社会は左側に立つ人ばかりが回している
ちょっと振り向いて、後ろにいる人に気がつくことが出来ない」
自分がどれだけ恵まれた環境に居たか気が付いた
私はほぼ全ての質問に該当していた、悩んで挫けることはあっても、ご飯がいつ食べられるのかも分からないまま何日も過ごすような苦労はしなかった
一般的に見て有利な条件を多く持ち合わせる人が、そうではない人に手を差し伸べる必要性を強く感じた
公演全体の話を通して、政治家への批判が目立つ方だった
これは前に立つ人間が後ろを振り向かないことを疑問に思って、憂いている故に出る言葉だったのではないだろうか
講演後のクラスメイトはこれに対して、
「差別は良くないとか言ってるくせに政治への思想強くない?」
と言っていた
それに賛同する他のクラスメイト
私は思った。話の何を聞いていたんだ!
これは私の愚痴でしかないが、良いと思ったものが否定されているのは凄く悔しい
だから私は、この恵まれた環境に感謝して、精一杯利用して、不遇な人の手助けをできるような大人になる、絶対に
「善意の言葉で傷付けられる」
言葉を使うことについても言及されていた
「簡単に人を侮辱するような言葉を使う人は、その人自身も同じことをされているって場合がある、だから加害者への心のケアも必要なことなんだ」
その中で、今回一番常識を覆されたこと
「僕は背が大きいことでよく褒められるけど、凄く嫌だった
何故なら、『体大きいんだから泣くな』『デカい体してんだからもっとガッといけ』と小さい頃から親や部活の先生とかに言われ続けてきたから」
「もしかしたら、世間的にみて長所とされることでも本人はコンプレックスに思っているかもしれない」
「よくTVで美人すぎるスポーツ選手って取り上げられるけど、本人は迷惑でしかしないかもしれない
そのせいでチームメイトから調子乗ってると思われるかもと怯えるし、もっと言えば1人を美人だとほめそやしたら周りの選手は美人じゃないと言っていることになる」
「だから、関係が深くない人と話すときには相手の変えられない容姿や育ちの話にはなるべく触れないように心がけている。もっと仲良くなりたいなら、その旨を伝えて聞いてみる
相手を傷付けてしまったら真摯に謝る」
私は今まで人のコンプレックスを何の遠慮もなしに褒めて、その人の触れてはいけないところに触れていたのかもしれないと思うと罪悪感が溢れてくる
どおしても、相手が自分にないものを持っていると自分の価値観だけで羨ましいと思ってしまってそれを口に出してしまう、それはとても恐ろしいことなんだ
この話を聞いて、言葉に気を配ってもっと大切にしていくことを学んだ
これに対して、先ほど書いたのと別のクラスメイトの言葉
「じゃあ何にも人と話せなくない?」
これにもまた、賛同する他のクラスメイト
だから!何を聞いてたんだよ!
その子のコミニュケーション観の狭さに驚いた
皆んなこんな風に思っているなら、この社会から差別は無くならないんじゃないかと悲しくなる
確かに、具体的に私達学生がどう動けばいいかの答えを提示してくれる方では無かった
でもそれは、私達一人一人が真剣に悩んで向き合って出す答えではないだろうか?
今回の話はその考えるきっかけを与えてくれたんだと思う
もっと、強い軸と踏み込む勇気が欲しい