バルト旅行記2019 パート2: リトアニア
7月29日
ヴィリニュスへ
バルト三国旅行の際はエストニアあるいはリトアニアからそれぞれ南北にバスで回っていくのが一般的ですが、私はリガから出国したかったので一度ラトビアを飛び越えます。
こんなに明るいがすでに19時を過ぎています。エア・バルティックBT336便はボンバルディアDHC8-Q400というターボプロップ機での運行です。いわゆるプロペラ機。かわいいでしょ。
サービスはてきぱきと丁寧に笑顔でこなされていて、なんだか洗練されたエアラインです。制服がおしゃれ。1時間ほどの飛行で定刻通りに到着。さすがは定時性が売りのエア・バルティック。
ヴィリニュス駅前のパノラマ・ホテルにチェックイン。エレベーターホールから望む旧市街の夕日が美しいです。「デポジットの4€」がなかなか聞き取れませんでした。
7月30日
夜明けの門
ガイドのAさんと町へ出ます。雨が降りそうで降らない曇り空が広がっています。リトアニアの国名はリトアニア語で"Lietuva"ですが、語源は雨"Lietus"だという説があるそう。そんな空模様が日常なので気が沈んで自殺率が非常に高いとか…
600mほど歩くと旧市街の入口、夜明けの門に行きつく。15世紀のリトアニア大公国時代、モンゴルの侵略を防ぐ目的でヴィリニュスに城壁が作られました。当時は門が5つあったのですが、ロシア帝国時代に城壁と一緒にほとんどが破壊されてしまいました。夜明けの門には様々なものが彫られています。イエス・キリストのイコンの上にはヴィーテスという、国章になっているリトアニアのシンボル的存在な騎士がいます。彼は逃げる敵を地の果てまでも追いかけたとか。
門の裏側の礼拝堂はカトリックで、ローマ法王もお祈りされたとか。1363年にアルギルダス公がクリミア遠征から持ち帰った聖母マリア様のイコン"ブラックマドンナ"が有名です。
14世紀にゲディミナス大公が人口増加と文化レベルの向上を図ってヨーロッパ中から多くの人々を招きました。信仰の制約が一切なかったため多くの人々が移住し、リトアニアは多民族国家になりました。それゆえ、ヴィリニュスには多くの宗派の教会があります。
現在の二大勢力はカトリックとロシア正教。夜明けの門通りを北上すると右手にみえるカトリックの聖カジミエル教会は1604年にイエズス会が建てたバロック建築の聖堂です。遍歴の癖が強くて、ロシア帝国時代には正教会の象徴である「玉ねぎ屋根」がつけられ、ドイツ時代にはプロテスタント教会に、ソ連時代には無神論博物館になりました。鐘楼に鐘ではなく風鈴があるのがユニーク。ロシア正教会はピンクのかわいい精霊教会が挙げられます。
ウクライナ・カトリックという宗派の聖三位一体教会があります。ポーランドがウクライナやベラルーシに侵攻する際に作った宗派で、ローマの影響下にあるものの礼拝様式はギリシア式。
ゲットー跡
旧市庁舎広場(Rotušės Aikštė)につきました。ヴィリニュス第二の広場で南側に旧市庁舎があるのですが、予算の都合でかなりしょぼい復元。観光案内所がこの建物に入っているのですが、旧市庁舎の中で「旧市庁舎はどこですか?」とよく聞かれるそう。
広場からStiklių通りに入り、ホテルの角で右折するとゲットーの地図があります。第二次世界大戦の前後でリトアニア内のユダヤ人の数は7万人から数百人にまで激減しました。ナチス時代、大ゲットーには働ける人が、小ゲットーには働けない人が詰め込まれていました。
ヴィリニュス大学
大学通りを進むと右にヴィリニュス大学が、左に大統領官邸があります。ヴィリニュス 大学は16世紀の宗教改革で勢力を強めていたプロテスタントに教育で対抗すべくローマ教会がイエズス会を招き 、1570年に設立されました 。言語学部棟2階のホールには自然崇拝時代の四季のモチーフが壁一面に描かれています。リトアニアはヨーロッパで最後にカトリックを受容した国です。部屋の中央のレリーフには古代バルト語でいろいろ書いてありますが、読めません。
キャンパス内に聖ヨハネ教会があります。パイプオルガンがあり、鐘楼には上ることができます。急な階段の先には旧市街のパノラマが。ヴィリニュスの緑の多さがとてもよくわかる。国旗の黄は太陽を、緑は自然を、赤は血を意味しています。
シャルティバルシチェイ
昼食にリトアニアの伝統料理を食べます。一品目はシャルティバルシチェイというビーツとケフィールのピンクの冷製スープ。さっぱり系です。好き嫌いがわかれそう。二品目はツェペリナイというつぶしたジャガイモで豚のひき肉を包んだ団子。ドイツの飛行船がその名の由来です。形が似ているんです。作るのが面倒くさい。
大聖堂とリトアニアのカトリック
ゲディミナス大通りを渡って美しいカテドゥロス広場に出ると最近復元が完了した王宮があり、そのとなりには大聖堂があります。正式名称は直訳すると「ヴィリニュスの聖スタニスラウスと聖ラディスラウス大聖堂」になると思う。1387年にカトリック化されました。
1236年にミンダウガス大公が統一リトアニア大公国を建ててカトリック化しかけたけれども彼が死後キリスト教の影響力が弱まった、つまり自然崇拝が根強かった。しかしラトビアのあたりのリヴォニア騎士団やロシアが手を出そうとして国の存続が危ぶまれたため1386年にヨガイラ大公がカトリックを受容してリトアニア=ポーランド大公国を成立させ、ヴィータウタス大公時代には黒海沿岸まで勢力を伸ばした…というのがリトアニアのカトリック受容のざっとした流れだったはず。
大聖堂の右奥の部屋が17世紀から残る聖カジミエルの礼拝所。さっきの教会の人、リトアニアの守護聖人です。奇跡エピソードがいくつかあって、まず、彼の絵には手が3本描かれています。これは消しても消しても現れたからだそう。また、遺体は納棺から120年経っても腐敗しておらず、死にかけの女性が棺のそばによると翌日には元気になっていたそう。
ゲディミナス城
王宮の奥にあるのがゲディミナス城で、現在は塔だけが残っています。ゲディミナス大公は丘の上に立ち、鉄鎧を纏って吠えるオオカミの夢を見ました。司祭はこれを神のお告げだと判断し、この丘にお城を建てた。というのがヴィリニュスの始まり。ゲディミナス大公の像はカテドゥロス広場にもあります。
ナポレオン・ボナパルト
広場からバルボロス・ラドゥヴィライテス通りを進むと左手に聖アンナ教会があります。15世紀末に建てられた、現存する中ではヴィリニュス最古の教会です。フランボワイアンゴシックの傑作とされ、その名の通り赤煉瓦の建物には炎のような躍動感がある。ロシア遠征の際にナポレオンが「わが手に収めてフランスに持ち帰りたい」と言ったとされ、教会の前にも彼の顔が描かれていますがそれは大嘘。ただの武器庫として使っていました。
ウジュピス共和国
ウジュピス共和国という、アーティストの国がヴィリニャ川沿いにあります。もともとユダヤ人が住んでいた地域ですが、彼らがゲットーに移され、空き家だらけだった治安の悪いエリア。そこに芸術家たちが移ってきて、ジェントリフィケーションとまでは言わんが現在はいい感じにきれいに仕上がっています。独立記念日は1997年4月1日のエイプリルフール、そして国境は曖昧なので承認国家は一つもない。しかし、大統領はいますし13人の隊員を擁する軍隊もある。入国条件はアートを愛し、笑顔であること。入国審査は4月1日にしかありません。川を渡る橋にはカップルが愛を誓い合った南京錠がたくさんありますが、リトアニアの離婚率は40%超え。様々な言語に翻訳されて掲示がある憲法では幸福追求権や自由権が保証されています。
7月31日
十字架の丘
リトアニア北部シャウレイの北にあるカトリックの巡礼地の一つ、十字架の丘に行きます。車で2時間30分くらいで着きました。
この丘は特に聖なる出来事が起きたというわけではなく、本来はロシア帝国からの独立戦争で亡くなった人々を悼み祈る場所でした。戦没者の家族は遺体の代わりに十字架を立てました。しかしソ連時代にはソ連の抑圧に対する抵抗の象徴となりました。KGBは十字架をブルドーザーで何度もなぎ倒しましたが、地元の人々は何度でも十字架を立て直しました。
世界中の人々の思いを吸収して広がり続ける祈りの場、せっかくカトリックなのだし、うちの修学旅行にぴったりだと思うんだけどなぁ…
KGB博物館
ヴィリニュスに戻ってKGB博物館へ行きました。正式名称は「占領と自由への闘争の博物館」。7番トロリーバスに乗ってPamėnkalnio通りで降車。ソ連の侵略とシベリアへのリトアニア民族追放の歴史のパネルもしっかり見るべきですが、何より強烈なのがリアルな負の遺産、当時の監獄です。シュレッダーされた秘密書類の山々や電話の盗聴室に、体を強く締め付ける囚人服、その叫びが漏れないように14重にもなった壁や冷水が張られた懲罰室。そして所形質。ガラスの下に見える当時の床には殺害された人々の眼鏡が転がっています。ビデオが流れていましたが直視できるものではない。流れ作業です。書類を読む、連れてくる、銃殺する、バケツで血を流す。30秒サイクル。
8月1日
カウナス
今日はカウナスに行きます。ネムナス川に沿ったリトアニア第二の都市です。ヴィリニュス駅から電車で向かうのですが、線路式替え中なので途中のパレモナス駅からはバスです。4両編成の自由席で、Wifiとコンセントが整備されています。清掃も行き届いていて快適です。切符の改札があった後はただただ外を眺めていました。1時間でパレモナスに到着し、ここからはリトアニア鉄道が用意したSpecial Bus Serviceでカウナスに向かいます。椅子が足りていませんでした。
カウナスの公共交通機関はどれも1€。バスに少し揺られた後丘を登って閑静な住宅街を歩きます。
杉原記念館
「緑の山」と呼ばれる高級住宅街に旧在カウナス日本国領事館があります。領事館閉鎖後はソ連の国有物になり、一時期アパートとして使用されたため、当時のものは日本国旗以外なにも残っていません。しかし、執務室の様子は極めて忠実に再現されています。机の上には氏の写真やタイプライター、ビザ受領者の一覧表(いわゆる杉原リスト)、ビザの複製があります。
1940年7月18日の早朝、200人ほどのユダヤ人が日本通過ビザを求めて領事館に押し寄せました。彼らはナチスから逃れるためにソ連と日本を経由して第三国へ行くしかなかった。彼らの多くがビザ発給条件を満たしていなかったうえ、日本はドイツの同盟国であったため、政府は当然拒否しました。
『私も、何をかくそう、回訓を受けた日、一晩中考えた』
ビザ発給条件の一つに最終受け入れ国の許可がありました。つまり、目的地であるアメリカなどの入国が担保されていなければ日本通過の正当性が認められません。そこで力を貸したのがオランダの名誉領事ヤン・ツバルテンディクです。彼はカリブ海に浮かぶオランダ領のキュラソー島のビザを発給しました。
『忘れもせぬ一九四〇年七月二九日からは、一分間の休みもなく、ユダヤ難民のための日本通過ビザ発給作業を、開始した次第です』
8月3日にリトアニアはソ連に併合され、日本領事館は25日に閉鎖されることになりました。領事館閉鎖まではもちろん9月5日にリトアニアを離れる日までビザを書き、最後の一枚は走り出した列車の窓から投げられたそう。
ところで、杉原には優秀な諜報員としての側面もありました。カウナスを去ったあとはケーニヒスベルクの総領事館に赴任し、ポーランドのダシュケヴィチ中尉と独ソ国境地帯に偵察に赴き、駐ソ連大使や駐ドイツ大使でさえつかんでいなかったドイツのソ連侵攻計画を正確に伝えました。日本政府は信じなかったようですが…
カウナス市街
杉原記念館を後にし、緑の山から長い階段を降りると公園があります。白い小さなモスクとロシア正教会の聖堂がありました。角を曲がると聖ミカエル教会がある。新市街のメインストリート、自由通り(Laisvės al)はインフラ更新の最中でどこも工事中。
つづく
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