Return to Sender vol.6 | Kamelia
第6弾となりました「Return to Sender」。
今月は石本藤雄さんがマリメッコで手掛けられたテキスタイルの中から、1992年発売の《カメリア》(Kamelia/ツバキ)について、ミズモトアキラさんに執筆して頂いています。松山市の「市花」である所縁~資生堂さんのロゴマーク~石本さんの同級生の方々の話にまで、ジャンルも年代も違えどスムーズに繋がっていく「選曲」を聴いているようなテキスト。そして、毎度の長めの"あとがき"は過去最長。石本さんへのインタビューなど、隠れたストーリー等は読み応えはあります。
この企画、石本藤雄さんについて、この時期に、このメンツ(aka Junkies)でしかしか残せなかった「記録」になっていっているのでは。是非、最後まで読んでみてください!
Kamelia
Text by Akira Mizumoto
Kamelia───つまり、椿。
松山市民にとって椿は市の花だ。
夏目漱石っぽく書けば「我輩たちの花は椿である」ということになる。
飛鳥時代、松山を訪れた聖徳太子が道後温泉について書いたとされる「伊予国風土記」のなかに「周囲には椿の木が生い茂って、温泉を取り囲み、その壮観な様子はたくさんのキヌガサを差し掛けたようにみえて美しい」(意訳)という一文があり、それにちなんで1972年に制定された。
道後温泉本館は昔も今も観光客に人気だが、同じ源泉を使った「椿の湯」という入浴施設が本館のすぐ近所にあって、どちらかといえば地元の人たちはこちらに入ることを好む。
また市民にもっとも親しまれている「伊豫豆比古命神社」の通称は《椿神社》で、毎年ここで旧暦1月7〜9日に開催される例祭日も、親しみをこめて「椿さん」と呼ばれている。
ともかく松山に住んでいるとマンホールの蓋にまで椿の花が描かれているので、目に入らない日はないけれど、多くの日本人にとって毎日、目に入る椿といえば、資生堂の商標「花椿」ではないだろうか。
しかし、資生堂の創業当時、ロゴマークは椿ではなかった。
(画像:『資生堂宣伝史 I 歴史』より)
1872年(明治5年)、日本初の民間薬局として誕生した資生堂は、もともと胃腸薬や練り歯磨きなどを製造していた。その頃、パッケージにあしらわれていたのは「鷹」。ライバル会社に「ライオン」があり、向こうが陸の王者なら、こっちは空の王者で───という理由で選ばれたそうだ。
その後、1897年(明治30年)に化粧品の開発にのりだし、翌1898年、香油「花つばき」を販売する。日本人女性が日本髪から外国風のヘアスタイルへ変化していたこともあり、粘着力を弱め、爽やかな香りをつけた「花つばき」は人気を博す。そして女性向けの商品にいかめしい鷹のマークは似合わないということで「花つばき」にあやかった商標に変更したのだ。*
* 偶然にも、資生堂が最初に売り出した化粧品のラインアップの中に、男性用のヘアトニックがあるのだが、「花たちばな」という商品だった。実は愛媛県の県花はみかんの花───すなわち花たちばなだ。単なる偶然のような話だが、愛媛県民としては押さえておきたい蘊蓄である。
陣頭指揮を取ったのが創業者の息子、福原信三だった。彼は子供の頃から西洋式の絵画教室にかよって画才を発揮していたが、家業を継ぐため、薬剤師の道に進んだ。その後、1908年(明治41年)にアメリカのコロンビア大学へ留学し、ニューヨークの製薬会社で勤務した後、日本に帰る前にはヨーロッパを遊学した。
その頃のパリは印象派の時代だった。モネやルノワールがまだ存命で、日本人画家も多数パリに滞在していて、福原は藤田嗣治らと交流を持つ。また、彼は最先端の芸術だった写真に興味を持ち、イギリスのカメラ「トロッペン・ソホ」を購入。パリ市街を撮影した作品をまとめて写真集『パリとセイヌ』(1922年)も出版し、写真家という顔を持つことにもなった。
ヨーロッパからの帰国後、信三が会社の経営に関わるようになり、もっとも力を入れたのが意匠部───つまりデザイン部門だった。留学先で知り合った芸術家たちを雇い入れ、社長室とは別に意匠部のなかにも自分のデスクを置いた彼は、社長室に来ない日はあっても意匠部の椅子に座らない日はなかったそうだ。
資生堂が取り入れたデザイン思想は、フランスで19世紀後半から20世紀前半に隆盛を極めた芸術運動「アール・ヌーヴォー」だ。産業革命によって急速に機械化していった社会への反発から、植物の有機的な形状を流麗な曲線を駆使して写し取り、自然と芸術との融和を目指した表現様式である。情報の伝達スピードがまだまだ遅く、海外のデザイン的な流行への感度が低かったのが、当時の日本。現地を直接知り、芸術的感度も高かった信三のセンスはまさに資生堂の武器だった。
(画像:資生堂公式フェイスブックページより引用)
花椿の商標も、信三のスケッチをもとにブラッシュアップされて、100年以上前の1915年(大正4年)には、今あるデザインに落ち着いた。改訂を担当したのは東京藝術大学で日本画を学び、資生堂意匠部のスタッフ第一号として雇われていた矢部季(すえ)。現在も使われている〈SHISEIDO〉という欧文ロゴタイプも、原型は矢部によるデザインだ。
そして1974年、花椿マークは日本のグラフィックデザイナーの草分けのひとりで、資生堂意匠部で戦前から働いていた山名文夫がデザイン上の正式なルールを規定して完成させたものだ。
石本さんと東京藝術大学美術学部工芸科で同級生だったデザイナーの松永真さんは、藝大卒業後の1964年に資生堂宣伝部に入社する。宣伝部の前身はというと、もちろん福原信三が立ち上げたあの意匠部だ。松永さんは60〜70年代に一世を風靡したサマーキャンペーンのポスターなどで才能を発揮し、注目を集めた。
藝大の先輩で資生堂宣伝部で働いていた石岡瑛子さんに石本さんが自分のポートフォリオを見せ、資生堂がかっこいいという話をしたところ、別の会社(市田)を推薦され、そちらで広告デザイナーとして働くことになる。もし、石本さんが石岡さんの口利きで資生堂に入社していたら、どんな仕事を遺しただろうか……と想像をふくらませるのは楽しい。しかしたったひとつ言えるのは、そういう未来が実現していたら、少なくともムスタキビは今ごろ存在しなかった可能性が高い、ということだ。
参考資料:『資生堂宣伝史 I 歴史』(資生堂刊)、『石本藤雄の布と陶』(PIE BOOKS刊)
あとがき
Text by Eisaku Kurokawa (Mustakivi)
ミズモトさんとの連載企画・第6弾で取り上げたのは、マリメッコ社から1992年にリリースされたカメリア(Kamelia / ツバキ)でした。確認できているカラーバリエーションは9種。
どことなく「五木田智雄」さんのドローイングを彷彿とさせるような現代美術、コンテンポラリー・アートな魅力を放っています。石本藤雄さんのテキスタイル・デザインの中でも異彩を放つデザイン。
石本さんへのインタビューで分かったのは、この9種の内、実際に商品化されたのは「恐らく2種ほど」だったということ。(商品化されたのは恐らく9種の写真のうち上段「左&真ん中」・その他はカラーテストの可能性が高い)
また、「デザインのアイデアが生み出された背景やきっかけ」について、インタビューでは一番伺いたい内容でしたが、明確な答えは頂けませんでした。
なので、またまた「あとがき」が長くなるのですが、時代背景や、当時の石本さんの制作について、推測も含めての内容となりますが要点をまとめます。
まず、1990年代といえば、世界的には1991年の湾岸戦争が挙げられます。多国籍軍がイラク攻撃。更にソビエト連邦崩壊も重なり、世界は正に「混沌とした世の中(Chaotic World)」でした。
また、フィンランドではソビエト連邦の崩壊によって、重要な経済圏が一時停止してしまったことにより深刻な経済不況に陥ることになります。
(余談ですが、1992年~94年頃にフィンランドで発売されたアート作品等(Oiva ToikkaのBird作品など)は、探しても探してもなかなか出てこないのは不況でアートを買う人が少なかった→流通量が少ない→ヴィンテージ市場に出てこないという要因が大きく影響している)
1990年代初頭、マリメッコ社では「重要な転換」を迎えることとなります。創業者 アルミ・ラティアが1979年に亡くなってから、合併や売却によって経営者が度々変わり、迷走を極めていた(倒産の危機もあった)ところに、後に「救世主」と評されることとなる女性経営者「キルスティ―・パーッカネン」が会社を引き継ぎます。その頃から社内は明るさを取り戻し、若いデザイナーを新たに起用したり、「デザインを最優先」する経営方針に変わった(戻った)時期でした。
一方、石本さんは、1989年にアラビアで陶芸活動を開始し、翌年にはアラビア内で作品を発表。1991年にはアメリカの「金子潤」氏を訪ね、陶芸による新たな表現方法を吸収します。
ちょうどその頃にデザインされたテキスタイルを並べてみました。
石本さんが陶芸を始めた90年代辺りから、テキスタイルデザインの中にも、スケッチから「陶芸的なタッチ」が影響してくる様子を感じます。「ペンや鉛筆の発想」から、より「筆」や「面」のデザインが増えていくと、"何処となく"感じます。
はい、、とても長くなりましたが、以上まとめますと、、、”Kalelia”という独創的なテキスタイル・デザインが生み出された背景には、①戦争や経済危機等の「混乱」、②マリメッコ社の「ムード」「変化・希望・自由」、③石本藤雄さんの「活動」、「布と陶・平面と立体・線と面等の融合」、等の要因が少なからず影響して生まれたと考えられます。
いつも感じることですが、石本藤雄さんのテキスタイルデザインや陶芸作品には、沢山の知られざるストーリーが眠っています。素敵なエピソードの数々に、毎度お話を聞きながら心を動かされます。正に「レジェンド」。
これからも、ちゃんと聞いて、こっそり記録もしておきたいし、伝えていきたいです。
来月の「Return to Sender」もお楽しみに。ミズモトさん、来月も宜しくお願いします。最後までお読み頂き、ありがとうございました。