完結できない作家たち
日曜日に、詩人の村田活彦さんとキャスで話をしていた時のこと。こんな表現が出てきた。
物語がやってくる
村田さんにとっては、物語は、自分で作り出すというよりは、自分のところにやってくるようなものだ、とのことだった。これは私は想像もしたことがない感覚でとても興味深かった。
さて。
昨日ぐらいからとある理由で、2009年放送版のアニメ『涼宮ハルヒの憂鬱』(全28話)を観ている。放送当時も今も私にとって大事なアニメであり、日本のアニメ作品史上でもかなりエポックメイキングな名作だと思う。
この名作アニメ『涼宮ハルヒの憂鬱』の原作はしかし、なかなか新作が書かれず、ちゃんと完結されるかどうかもかなり怪しい状況だ。実は、著者の谷川流には「前科」がある。『涼宮ハルヒの憂鬱』シリーズ以前に書いていた『学校を出よう!』シリーズも(一区切りはついているものの)未完のままなのだ。
昨日までは私は、このような「物語を完結させられない」タイプの作家は、自分が作る物語に飽きてしまうのかな、と思っていた(あるいは単に怠惰な作家もいるかもしれない)。そしてそのことに対してかなり低めの評価をしていた。
しかし、日曜日に村田さんから聞いた話から、「物語を完結させられない」タイプの作家には、こんなパターンもあるのではないか、と思い至った。それは、
自分のところにやってくる物語が孕むつらさに、書き手の精神が耐えられず書き続けられない
という可能性だ。谷川流の『学校を出よう!』も『涼宮ハルヒの憂鬱』シリーズも、ポップさもあるが、不穏さもかなりはらんでいる。一読者の勝手な感想だが、『涼宮ハルヒの憂鬱』シリーズは、主要登場人物の誰かが最後に死を迎えても全く不思議ではないとすら感じさせる。
谷川流のもとに引き寄せられる物語は、作者自身が書き続けることがしんどくなるほどにダークなのではないか。
このタイプである可能性を感じさせる作家とその作品を、私はもうひとり思い出すことができる。矢沢あいの『NANA』だ。これもまた大変重いストーリー展開で一区切りしたのち、物語が更新される気配はない。おそらく完結することはないだろう。
以上はどこまでも一読者の想像、妄想に過ぎない。過ぎないが、書き続けられない理由は飽きだけではない、という可能性は頭に残しておきたい。
自分が物語の語り手に回った時に、このようなことにならないとは、誰にも言えないからだ。