一首評:藤原建一「2022年8月27日 日経歌壇」掲載歌
急に「死者」に出会ってしまった時の居心地の悪さや心のざらつきにフォーカスが当たる短歌。
と同時に、なぜこの言い回しなのだろう、という謎が残る短歌でもある。
それは四句目の「生きて」という言い回しだ。意味としては「その録音の当時にはまだ生きていた」といったところだろうか。
意味として通じやすくしようと思うならば「生きた」あるいは(字余りにはなるが)「生きていた」「生きている」といった言葉の方がいいだろう。
だがあえて言葉足らずな「生きて」という言い回しが選択されることにより、「コンサートCDの中では生き(続け)ている」という意味と「まだこの時は生きていた」という意味、両方を引き受けることができているように思う。
さらにその言葉足らずな感じが、最初に述べた様な、作品や映像の中で急に「死者」に出会ってしまった時の居心地の悪さや、動揺、心のざらつきをうまく伝えていると思う。
さりげない様でいて、かなりアクロバティックな言い回しなのではないだろうか。
ちなみに、この短歌の中で詠われている「カザルスのホワイトハウスのコンサート」とは、1961年11月13日に伝説のチェリスト、パブロ・カザルスがケネディ大統領に招きに応じてホワイトハウスで開かれた演奏会のことであり、その時の一世一代の『鳥の歌』の名演とともによく知られている。
このあまりに有名なコンサートの音声から、カザルスのチェロではなく、ケネディの拍手にフォーカスするのは、とても藤原建一らしいと思う。
なお、この演奏会のほぼ2年後、1963年11月22日、ケネディ大統領はダラスで凶弾に倒れる。