ほんの微かに、霜ばしら
「霜ばしら」という仙台の宝石のようなお菓子がある。先日、セレクトショップの限定品にわずかばかり並んでいた。贈り物にいただいたときの、さらさらの粉から掘りおこし、繊細に光る「霜ばしら」を愉しむという贅沢な感動を思い出した。口のなかで、かしゃっと小さな音を立てて、すぐに溶けてゆく。なんという芸術品なのだろうと、粉雪に眠る「霜ばしら」にしげしげと見惚れてしまったのだった。
かしゃっ。
細い氷の柱。かすかな振動に反応する、細やかなガラス細工のさま。賑やかであれば気がつかない、人知れず静かに変動する美しきもの。
この「かしゃっ」を思い出した音楽がある。オリヴィエ・メシアンの《子を見つめる子のまなざし》(《幼子イエスに注ぐ20のまなざし》第5曲)という作品だ。和音による3声カノンが生み出す微妙な「ずれ」と「ぶつかり」の、それはそれは繊細で美しきこと。旋律の3声でも頭を使い技術を要するところ、和音の3声を弾き始めるときは、いやいや、ちょっと待ってちょうだい、などとも思った。それが、弾いてみると驚きのあまり、難しさなど気にならない。それどころか、かの「かしゃっ」が聴こえるものだから、感動せずにはいられない。小さな、でもそれはたしかな幸福感だった。またその瞬間が訪れて、そうしてまた、小さな驚きと、幸福までもが重なってゆく。演奏というのは、このような感動の現象の最も近くにいることができる、贅沢な瞬間を生きることだ。心が満ちてゆくころに、今度は「かしゃっ」から完全に顔を出した「神の主題」のうえに、伸びやかな鳥の歌が、それまた幸せそうにさえずるではないか。ちょっと待ってちょうだい。なんていう、芳しい音楽なの。
私はこの作品が大好きなのだが、言われてみればたしかに、終わりそうで終わらない。鳥が鳴き止むのか、遠くへゆくのか、まどろんでゆくのか、それはわからないけれども、流暢な歌はやがて残響の断片に微かに声をあげ、私たちを余韻に残し、いずこへか誘う。そうして再び「かしゃっ」とした宝石を生むカノンの訪れに身を委ねる。
どこまでも続いたら良い、とさえ私は思うのだけれども、人によっては、もう良いのではないかと思うかもしれない。ブレーキを踏みながらまた進み、緩んでは止まらない車のように感じるのだろうか。それは私も、酔ってしまって全くだめね。
そういえばシューベルトもよく「繰り返しが多くて、もう良いよ、という感じ」と言われることがある。私は口数が多くないので、ふうん、と思うくらいだ。でも自分のような人間には、あの繰り返しと、微妙に変えてくる和音の変化が、ちょうど良い。
以前綴ったことのあるように、私はシューベルトの21番ソナタがなければ果たして生きてこられただろうかと思うほど、この作品が好きだ。中学生のときに出会って以降、ずっとそうだ。世のなかには、これほど優しく、ただものでない光を見、深く歩みゆく音楽があるのかと惚れ込んだ。とくに弦楽四重奏のような第二楽章が好きで、あの転調の妙と、人の息遣いのようなアーテュキレーションが、いつ聴いても、いつ弾いても、言葉にならない温度となって身体に流れる。たしかだれか―たくさんいると思うが―「第1楽章を繰り返すと知ったときの気怠さと我慢」のようなことを本に書いていたように思う。そのとき、「この人はきっと、強い人なんだ」と感じた。ここの繰り返し前のトリルなど、繰り返してくれないと聴くことができないのだけれど、それよりその、大地の遠い底から震えるようなトリルの霧を歩み、主題に戻る温かさといったら、極上ではないか。彷徨えるままに彷徨って、永き歌が―それは一歩踏み出しただけで涙の滲むほどに優しき歌が―また始まるのだ。こんなにも慰められるひとときを、私は知らない。
曲が始まる遥か前からその音楽は流れていて、曲が終わってもまだまだ続いているような作品というのは、それなりにある。ベートーヴェンの後期の弦楽四重奏やシューマンの《子供の情景》、サン=サーンスの室内楽やドビュッシーにラヴェルにサティ…いろいろある。耳に届く部分というのは、永い時空のなかで世に現れた、その限られたひと時なのではないか、とも思っては、「またこうやって“人生”などと結びつけようとしてしまった」とひとり苦笑するのだけれども―音楽は音以外の事象を語るでない、などと言われたとしても、音楽ないし芸術文化は人間の、人間たらしめるところから浮かび上がった結晶なのだから、致し方のないことではないかと、自分を慰めているのである。
いろいろな人との会話を通し、言われてみれば、メシアンもシューベルトもまあ、たしかに長い。レストランで出された食事を愉しむというより、やはり、その時間を、生きる、という感じがする。ただ、周りから「長い」と言われるまで気にも留めなかったほど、私は彼らの音楽が好きだ。好きなものを前にすると、この時間に居られる間、自分は最も解放され、最も自由で、最も素朴である、と思う。このふたりに通ずるものは、一個体が生まれる前と、そのあとにも流れる不変のものなのだろうと思えば、素朴な感覚を与えられるのも合点がゆく。人間に赦された地上の時間などほんの限られたものであり、それらは本当に、小さき存在なのだから。自分が小さき存在である、と思うことほど、穏やかなことはない。人はみな、大きいも小さいも上も下もなく、同じように、在る、という状態である。それは既に地上を去った人々にも同じことで、広い天地において、同じように小さき存在だと、認めることである。
作品を生きる、ということは、表現能力をもった人に共通している感覚であると思う。つまるところ、言葉をもった全ての者たちに、共通しているということだ。
演奏は、生きる音たちとの対話であり、作品や作曲者との対話であり、聴き手がいる場合には聴き手との、ひとりでいるときは自己の内面との、対話である。奏者は音ひとつひとつの意味や意図を言語化できる状態まで読み込むことと、それを自分の心と身体に生き物として住まわせることと、舞台における奇跡的な空間での解放(熱を帯びて発散されることも、内省に入りこむある種の無防備に達することも含めて)に全てを託すこと、さまざまな段階を体験し、共有しうる人々との至福を過ごす。
たしかに―神妙な面持ちで、辛苦を表現したら、とても芸術家らしい。そこになにか狂気的なものが加われば、なおさらその効果は発揮されるのだろうと思う。けれども、それだけが芸術では、もちろんなくて、心を幸せでいっぱいにして奏でられるそれもまた、とても佳い。幸せ、というのは、全てを包括した光のようなもので、どこか達観したものがあると思う。だから人によっては、それを諦観、諦め、とも呼ぶかもしれない。
奏者はもちろん、その一瞬一瞬に尋常ではない緊張感と重みをもつけれども、それを人に振りかざすのは、ちょっと違う。あまりに張り詰めすぎていると、「君もこの状態を経験したまえ、できるかね」みたいな、何様のような感情をもつことも、人それぞれの正念場であるかもしれないが、そのようなとき、他者もまた、人知れぬ苦悩と混乱を背負い生きていることを、忘れてはいけない。他者を下に見たり、攻撃したくなるときというのは、きまって自分に余裕のないときである。他者を羨み、嫉妬にかられるときもまた、自分に甘えがあるからであり、原因は、他者にあるのではなく、自らにある。
人間、つまり全ての表現者は、面白いことに「自分」という高みから他者を見たがるもので、痛みを忘れたときが最も滑稽な行動に出てしまう。たとえば人にけがをさせた人を見たら、なんて乱暴な人だと思うだろう。それが、自分の意に反して、ぶつかったはずみに相手が転んだとしたら、自分を乱暴な人間だ、などとは思わない。傍から見て「けがをさせた」という一言にまとめられても、「そんなことをするのは乱暴な人がほとんどだが、自分は違う」などと思うのである。道理にかなっているかとか、正義であるかとかを判断する理性があっても、自分、というのはいつも、正しいときも正しくないときも「正しい」のであって、立場が変わればその「正しさ」もころっと変わる。正義も暴走すれば残酷であるし、真実も明かさないほうが優しいこともある。そういう、わりきれないものが、生きる、ということかもしれない。つくづく、面倒くさい生き物である。
もう必要性はないだろうと、時代ごとに言われ続ける音楽評論もまた、私にはなくてはならないひとつの芸術文化である。高校生のころから音楽評論を読むことが好きだったのは、それが、心からぽろっと出た、呟きのように思えたから。書き手はさまざまで、演奏する人もいれば曲を書く人もいて、音を出す側ではないけれど美学や文学、社会情勢に明るい人もいる。とてもおもしろい。だって、それを読めば、さまざまな角度からの音の聴き方が見えるのだから。世界が広がること、多角的に音を見ること、そこに広がる時代背景や人間模様、そこから彷彿とさせられる色や香り、空気や風、風味、言葉の世界、楽音ではない音の紋様―そのほかにも、たくさん。表現者にとってこれほどまでに好奇心を刺激してくれる音楽評論は、これまでの伝統のうえに、これからも咲き続けるはずだ。
なんというか、この呟きは、健康状態を知らせるようなものに似ている。「いまこのようなことが起きている、これはいつ頃から始まった症状です」「この様子は、風邪をひく手前の筋肉痛のようなもの」「ずっと咳が抜けなかったけれど、そろそろ快調になりそう」みたいな、現場監督や、患者さんのような、素朴な呟き。「これはけしからん、成敗してやろう」みたいなものでは決してないし、「我こそが治療できる者だ、従いたまえ」というようなものでも、もっとない。私はなにか、その素朴な呟きの扉から開く道を歩くのが好きで、わからないことを、一緒に、わからないねぇ、と寄り添ってくれるような、少し疲れた、優しい対話にはまってしまったのだと思う。
言葉の達人というのはやはり素晴らしくて、音楽は言葉で表せないと言いながら、実に見事に、そして静かに、宝石のような霜ばしらを踏ませてくれる。勝手にそちらで踏んでしまうのではなくて、踏ませてくれるからこそ、心に残り続ける。だから私は正直なところ、音楽を扱った、言葉の芸術品を生み出す人々が、楽譜が読めなくとも、楽器が演奏できなくとも、欠点にはならないと思っている。仮に世間から欠点と言われるのならば、それは魅力だということなのだろう。
演奏にせよ文章にせよ、急いでいたら気がつかないような「霜ばしら」を聴くのが好きな私のような人間もいるのだから、おそらくもうひとりやふたり、同じように音と言葉を欲する人間が、いまもこれからも世のなかに、いるのではないかな。ほんの微かに、それでもたしかに、幸せな。