【10クラ】第14回 「こども」のための音の絵本
10分間のインターネット・ラジオ・クラシック【10クラ】
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第14回 「こども」のための音の絵本
2021年6月25日配信
収録曲
♫クロード・ドビュッシー:《子供の領分》より 第6曲「ゴリウォーグのケークウォーク」
オープニング…サティ:ジュ・トゥ・ヴ
エンディング…ラヴェル:『ソナチネ』より 第2楽章「メヌエット」
演奏&MC:深貝理紗子(ピアニスト)
プログラムノート
フレンチジョークはいまや品の無いものに成り下がっていると言ったフランス人がいたが、フランス流アイロニーはなかなか厄介である。
それはお笑いであってもそうかもしれない。
人が気持ちの良くなる笑いと、そうでない笑い、その差は何から生まれるかと言えば敬意が根底にあるか否かかもしれない。
ただ人をコケにした笑いを私は本当の笑いとは思えない。
しかしながら悪口に話の「花」が咲くような「人間の悪趣味」が消えない限り、その笑いはなぜだか正当な笑いとして評価されるのである。
社会でいうところのいわゆる「正当」はときおり「正論を言わないこと」だ。ときおり、などという頻度でもないかもしれない。常に横行するその「正当」なる汚点には、勇気と意志を持たねばたやすく呑み込まれる。
たとえば全く意見の違う場合でも、一貫してブレないその姿には清々しさと頼もしさを覚えるものだ。そこには少なからずそれぞれの覚悟がある。その覚悟にこそ信頼が芽生え、敬意が芽生える。
さて、ドビュッシーは一貫して「反ワーグナー」であった。
それは世の中の動きに流される云々の前に、ドビュッシー自身の率直な意思があり、自分の音楽を描いていくという覚悟があった。
敬愛するボードレールさえも陶酔したワーグナーに、反発心と嫉妬心があったのは言うまでもない。結果的にその「反」の精神から生まれた作品の数々は名曲と言われ、それはワーグナーがいなければ生み出されることが無かった…という矛盾的生産が行われたわけである。
そのひとつが、今回の《ゴリウォーグのケークウォーク》である。
軽快なリズムのなかに合いの手のようにポンポンと置かれる「トリスタン和音」。この、ちょっと雑でしょと突っ込みたくなるような扱い方にもなぜか親しみを感じてしまう。
そして中間部に細切れに現れる美しく気怠いメロディーはワーグナーの最高傑作《トリスタンとイゾルデ》のモチーフ。ドビュッシーはそのメロディーを入れてはケラケラ笑いを挟み、「大いに情感を込めて」といちいちからかっている。
このある種の「劇場的」音楽は、子供向けの寸劇にも見えてくるし、非常にメルヘンチックでもある。愛娘に絵本を読み聞かせるパパの音楽。
イギリスの童話作家の描いた黒人「ゴリウォーグ」に、ドビュッシーは当時流行っていた新しい音楽・アメリカのダンスの「ケークウォーク」を踊らせたのだろう。コンテストに優勝した人がケーキ(cake)をもらえるから「ケークウォーク」。
ドビュッシーは類似のリズムで《小さな黒人》という小品も書いている。
象徴主義の芸術家たちはさらに新しいものを求めて、アメリカの芸術文化を取り入れていくのがこの時期の流れだった。ポーがその代表格だろう。今までになかった怪奇な題材に、フランス文化人は食いついた。ドビュッシーも幾度もその作品を音楽にし、長編にも臨んだ。しかしさすがのドビュッシーも、あまりの怪奇さに精神的危機を感じ頓挫したものもある。
《ゴリウォーグのケークウォーク》は短い時間のなかにこんなにも時代を投影している。さらに素晴らしいところは、これをいともサラリと軽妙に笑いながら、親しみやすい口調で描かれていることだ。
大袈裟な表現を嫌ったドビュッシーの、粋なジョークである。
2021年6月25日配信
収録曲
♫クロード・ドビュッシー:《子供の領分》より 第6曲「ゴリウォーグのケークウォーク」
オープニング…サティ:ジュ・トゥ・ヴ
エンディング…ラヴェル:『ソナチネ』より 第2楽章「メヌエット」
演奏&MC:深貝理紗子(ピアニスト)
プログラムノート
フレンチジョークはいまや品の無いものに成り下がっていると言ったフランス人がいたが、フランス流アイロニーはなかなか厄介である。
それはお笑いであってもそうかもしれない。
人が気持ちの良くなる笑いと、そうでない笑い、その差は何から生まれるかと言えば敬意が根底にあるか否かかもしれない。
ただ人をコケにした笑いを私は本当の笑いとは思えない。
しかしながら悪口に話の「花」が咲くような「人間の悪趣味」が消えない限り、その笑いはなぜだか正当な笑いとして評価されるのである。
社会でいうところのいわゆる「正当」はときおり「正論を言わないこと」だ。ときおり、などという頻度でもないかもしれない。常に横行するその「正当」なる汚点には、勇気と意志を持たねばたやすく呑み込まれる。
たとえば全く意見の違う場合でも、一貫してブレないその姿には清々しさと頼もしさを覚えるものだ。そこには少なからずそれぞれの覚悟がある。その覚悟にこそ信頼が芽生え、敬意が芽生える。
さて、ドビュッシーは一貫して「反ワーグナー」であった。
それは世の中の動きに流される云々の前に、ドビュッシー自身の率直な意思があり、自分の音楽を描いていくという覚悟があった。
敬愛するボードレールさえも陶酔したワーグナーに、反発心と嫉妬心があったのは言うまでもない。結果的にその「反」の精神から生まれた作品の数々は名曲と言われ、それはワーグナーがいなければ生み出されることが無かった…という矛盾的生産が行われたわけである。
そのひとつが、今回の《ゴリウォーグのケークウォーク》である。
軽快なリズムのなかに合いの手のようにポンポンと置かれる「トリスタン和音」。この、ちょっと雑でしょと突っ込みたくなるような扱い方にもなぜか親しみを感じてしまう。
そして中間部に細切れに現れる美しく気怠いメロディーはワーグナーの最高傑作《トリスタンとイゾルデ》のモチーフ。ドビュッシーはそのメロディーを入れてはケラケラ笑いを挟み、「大いに情感を込めて」といちいちからかっている。
このある種の「劇場的」音楽は、子供向けの寸劇にも見えてくるし、非常にメルヘンチックでもある。愛娘に絵本を読み聞かせるパパの音楽。
イギリスの童話作家の描いた黒人「ゴリウォーグ」に、ドビュッシーは当時流行っていた新しい音楽・アメリカのダンスの「ケークウォーク」を踊らせたのだろう。コンテストに優勝した人がケーキ(cake)をもらえるから「ケークウォーク」。
ドビュッシーは類似のリズムで《小さな黒人》という小品も書いている。
象徴主義の芸術家たちはさらに新しいものを求めて、アメリカの芸術文化を取り入れていくのがこの時期の流れだった。ポーがその代表格だろう。今までになかった怪奇な題材に、フランス文化人は食いついた。ドビュッシーも幾度もその作品を音楽にし、長編にも臨んだ。しかしさすがのドビュッシーも、あまりの怪奇さに精神的危機を感じ頓挫したものもある。
《ゴリウォーグのケークウォーク》は短い時間のなかにこんなにも時代を投影している。さらに素晴らしいところは、これをいともサラリと軽妙に笑いながら、親しみやすい口調で描かれていることだ。
大袈裟な表現を嫌ったドビュッシーの、粋なジョークである。
クラシック音楽を届け、伝え続けていくことが夢です。これまで頂いたものは人道支援寄付金(ADRA、UNICEF、日本赤十字社)に充てさせて頂きました。今後とも宜しくお願いします。 深貝理紗子 https://risakofukagai-official.jimdofree.com/