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がん体験備忘録 ♯22 肝臓がんからの鬱②〜心療内科にかかるまで
今日は、T大学病院での3ヶ月に一度の甲状腺がんのチェック。異常なく安心した。
さて、前回は、心療内科を初めて訪れた事を書いた。
今回は、それに至るまでの事を記しておきたいと思う。
病院でよく眠れないのは仕方がないのかもしれないが、それにしても入院中、ほとんど眠れなかった。「眠るのも治療のうちですよ」と言われ、数回睡眠導入剤をもらったが、効果はそれほどなかった。眠れないのは痛みのせいだと思っていた。
家に帰り、痛みはあってもそれに慣れてきていたが、ぐっすりは眠れない。うつらうつらはしても熟睡した感覚がない。そのうち「眠れない」と思う時間が長くなっていった。
ヒーリングミュージック、瞑想アプリ、アロマの香り、呼吸法、ツボ押し… 様々試すも効果はほとんど無し。
なぜ眠れないのか。それは病気に対する不安が根本にあったから。
病理検査の結果、私のがんは、最も悪性度の高い「低分化型」とのことだった。退院後の診察で、目に見えるがんはないので、抗がん剤は適用外とのことだったが、先生が「再発していないか、しっかり見ていきましょう」とおっしゃったので、「=再発の危険が高い」と思ってしまった。
そして、保険金の請求のために取り寄せた診断書には、しっかり「ステージⅣ」と書かれていた。分かっていても、文字で見るのはショックだった。
加えて「ステージⅣ 5年生存率.『-』」「再発しやすい」など、インターネットから得た情報が頭から離れない。
仕事はまだ休んでいたので、散歩などで体をなるべく動かすようにしていたが、昼間はついついこれらの事を考えてしまっていた。
一方、夜、布団の中ではこのような事を考えているわけではなく、中心は「眠れないな」という事だった。
眠れない状態が3ヶ月ほど続いた頃に考えていた事。それは
終活をしなければ( ; ; )
具体的に何を考えていたか。以下、当時終活として真剣に思っていたことを書いておく。愚かと呆れていただきたい。
1 姉に、家に関する書類や銀行口座のことを伝えておく。
2 家族や大好きな友達、お世話になった人に手紙を書く。
3 物を捨てる。
4 仕事は区切りまでやって、やめる。
などなど…
仕事や音楽、好きな山登りなどは、もうできないんだなと思うと涙が出る。まだまだやりたいことはたくさんあったのに。
今命を終えなければいけないとして、残念なことはたくさんあるが、一番最後に残った思い。それは「両親に申し訳ない」。
両親は81歳と80歳。「こんな幸せな老後を迎えられると思っていなかった」と口癖のように言っている両親に、人生の最晩年において「子供を亡くす」という大きな悲しみを味わわせてしまうかと思うと、それが一番つらい。
手術後は腫瘍マーカーも正常値になり、目で確認できるがんは無くなったにも関わらずだ。
眠らなくなると、思考がこうも異常になる。
体の方も異常を発し始めていた。眠らなくなって2か月ほどたって、動悸が気になるようになっていた。血圧も心拍数も高い。
服用している甲状腺ホルモンの影響かと心配になったので、甲状腺の手術をした大学病院に臨時で行って調べてもらったが、どこにも異常はなかった。
「ストレスは体によくない」「睡眠が大事」というのに、このような状態ががんの再発を誘発するのではないかと、また不安になっていた。
それでも、リハビリ出勤をはじめた11月頃は、思考回路は上記のように超ネガティヴであっても、まだどうにか頭は働いていた。
年明け、仕事に復帰したが、いよいよ不眠に伴う動悸は強くなっていく。
この頃、今度は、コロナ禍の中で「音楽の授業をどのようにすればよいか」という不安が強くなっていた。歌唱、吹奏楽器は禁止という中で何をすればよいのか、考えるのがとてもしんどかった。
後から考えれば、これも頭が働いていなかった証拠だと思う。今だったら、たとえ制限があってもやりようはいくらでも浮かんだだろう。
寝た感じはゼロなのに眠気を全く感じない。居眠りもできない。毎日、朝から心臓がドキドキしている。心臓がドキドキしているので、落ち着いて座っていることもしんどくなってくる。実家に行ってもほとんど口がきけない。
心療内科に電話をする決心をした1月下旬は、こんな感じだった。
♯不眠
♯鬱状態
♯肝臓がん
♯がん体験記
♯小学校教員