「崩壊するマイセルフ」第1話 事件

1

 最近の夏はとにかく暑い。まして午後2時ともなると異常な暑さだ。何も休日のこんな時期に人なんか殺さなくてもいいじゃないか。今西三郎のイライラはピークに達していた。
 現場はとあるカラオケ店の一室だった。「部屋で女性が亡くなっているようだ」と、店員から通報があったらしい。今西はカップラーメンにお湯を注いだところで上司から呼び出されたのだ。
「今西くん、カラオケ店で変死体だって。場所はメールするから、大至急現場にお願いします。私も今向かってる」
 ところが店に着いてみると、そこにいるのは馴染みの巡査だけだった。
「田島じゃねーか。元気してる?」
「今西さん、お久しぶりです。まあ、なんとかやってますよ。しかしこう暑いと捜査も大変でしょうね」
「まったくだよ。ところで、あの人はもう部屋に?」
「ええ。いつものように自転車でいらっしゃいましたよ。汗だくでした」
「ああ……」やっぱり自分の上司は変人だ。嫌な予感を抱えつつ、今西は現場の部屋に向かった。
「現場は、301号室ですからね!」店内まで響くような声で田島は叫んだ。今西は「分かってるよ」という意思を込めて手だけで応じた。彼には過去に何度か、マンションやホテルで現場の部屋番号を間違えた前科があった。だから田島のことを邪険にはできないのである。

 問題の上司は、部屋の外にいた。鑑識の人間に何やら指示を出している。
「古田さん、お疲れ様です。もう現場はご覧になったんですか?」
「大至急って言ったのに、遅いんだよ、君は」早速ため息をつかれた。こういう時の古田は大抵、なんらかの手掛かりを掴んでいる。
 古田剛。階級は警部だ。今西は捜査一課に配属されて以来、ずっと彼の下についている。
「僕も現場を見てきます」一応断りを入れると、古田は無言で手を部屋に向けた。
 部屋に入ってすぐ、被害者にの遺体があった。ざっと見たところ外傷はない。今西にはそれよりもテーブルの上が気になった。
 これ見よがしに瓶が置かれていた。中を確認してみると空だったが、表面のラベルには「青酸カリ」と書かれていた。
「被害者は篠原美月25歳。死因は中毒死です。解剖の結果次第ではありますが、毒物はおそらく青酸カリでしょう。なので正確には、青酸ガスによる窒息死というべきでしょうか。状況から見て、そこにあるカフェオレに毒を入れて、自分で飲み干したと考えられます。死亡推定時刻は正午前後と思われます」鑑識課員が早口で説明した。
「ご遺体を見て何か意見は?」いつのまにか古田が入ってきていた。
「一見すると事件性はなさそうですね。鑑識さんの言うとおり、この女性は自殺を決意して毒を持ち込んだ。そしてカフェオレに毒を混ぜ、一息に煽った……という感じじゃないでしょうか?」
「君は相変わらず視野が狭いね」そう言って古田は笑った。
「ご遺体をよく見てごらん。涙を流した形跡があるね」
 確かに女性の頬には、涙が乾いたとみられる跡があった。「ですが、これが何か重要ですかね?」自殺説を覆すには不十分なように思えた。
「被害者は顔を壁の方に向けているでしょう。おそらく、彼女は誰かと一緒にカラオケを楽しんでいた。そこで思いがけず毒殺されてしまったんだよ」
 言われてみれば不自然な気もした。「しかし、やはりそれだけで他殺と断定するのは早計かと思います」
「ここまで言っても気づかないのか……」古田はもう一度遺体の方を示した。もっとよく見ろということらしい。彼が顔の方を示していたので、今西は再度、今度は首から上を重点的に観察した。
「これは……」とても薄かった。しかし全く目視できないほどではなかった。被害者の首には確かに圧迫痕があった。
「ここには第三者がいたんだ。そしてその人物は、どこかのタイミングで被害者の首を絞めた……」
「少なくとも彼女の身体が第三者によって傷つけられたことは間違いない。生前にせよ死後にせよ、それが犯罪だという事実は動かないんだ。まずは通報者に話を聞きにいこうか」
 一筋縄じゃいかなそうな事件だな。今西は直感的にそう思った。

2

 被害者が所持していた免許証で、身元が判明した。名前は篠原美月。第一印象では大学生くらいかと思ったが、実際の年齢は25歳らしい。今西はそれらの情報をメモし、通報者である店長を現場の隣室に呼び出した。
「わざわざ部屋まで申し訳ありません。ただここなら我々以外には会話の内容は聞こえません。捜査関係者以外に情報が漏れることもありませんので、ご安心ください」これは古田の台詞だった。今西はメモ係を任されたのだ。
「それは構いませんよ。こちらだってことがいたずらに大きくなるのは望んでませんから」店長の男は頭を掻いた。目線もずっと定まらない。異常事態に緊張しているのかもしれない。
「まずお伺いしますが、最初に異変を察知されたのは店長さん?」
「いいえ、私じゃありません。バイトで入ってくれている大学生の女の子です。301のお客様の対応にあたったのが彼女で」
「なるほど。ではその店員さん、ここに呼んでもらえますか? それと店長には、301の防犯カメラを見られるようにしていただきたいんですけれども」
 古田のこの言葉を聞いて、途端に店長の表情が明るくなった。「はい! すぐに手配いたします」
 今西は店長の変貌ぶりに驚いていた。「あの店長、さっきまで挙動不審だったのに……」
「今西くん、覚えておくといい。ああいうタイプの人間はね、目の前のことに集中しやすいんだ。だから役割を与えてやる。今彼は、問題のバイトの女性と防犯カメラのことに集中してる。そうこうしているうちに気分も落ち着いてくるというものさ。その時にまた改めて事情聴取すればいい」
 まあ、その必要があるとも思えないけど、という言葉で彼の講義は終わった。今西も同感だった。
 おそらく彼は301の客のことなど全く覚えていない。殺人かもしれない事件に遭遇して緊張していたというより、ドラマで見るような事情聴取を実際に受けて浮き足立っていたという方が正しいような気がした。あの店長から有力な証言が出ることは、期待しない方がいいだろう。
 問題はアルバイトの女性の方だ。彼女は異変に気付いている。防犯カメラの映像と合わせて考えれば、何か分かるかもしれない。
 そんなことを考えているうちに、店長が戻ってきた。しかし、その表情はまたも曇っていた。
「すみません。彼女はまだ体調が悪いと…‥。証言したくないわけではないから、話はもう少し後にしてくれませんかと言っているんです。なにぶん彼女は、その……」
「ご遺体の第一発見者ですからね」古田が言葉を継いだ。現場に慣れている刑事でも、現場にはそうそう慣れられるものではない。まして一般人がいきなり死体を見つけたのなら、取り乱すのは当然だった。「無理もありません。こちらのことはお気になさらずとお伝えください」
「それで、防犯カメラの方は?」
「そちらは準備万端ですよ! 今すぐにでもご覧になれます」
「では、映像をチェックしてからもう一度事情聴取を試みましょう」

3

「どの辺からがよろしいでしょう?」店長の顔には笑みが浮かんでいる。とても自分の店で殺人が起きたかもしれないと憂うような顔ではなかった。
「被害者が部屋に入ったところから早送りで流してください」
 被害者が部屋に入ったのは11時の開店とほぼ同時だった。一緒に入室した男がいる。車いすに乗っていた。
「彼が最有力容疑者ってところですかね」今西は手帳に「車いすの男」とメモした。
「まあ黙って見てなさいよ」古田は至って冷静だった。映像を見終えるまで、彼の表情は変わらなかった。
「とりあえずこの映像をお借りしてもよろしいでしょうか? 我々、今から捜査会議でして」
 さすがにすべての映像は出せないということで、該当部分だけダビングしてもらった。
「ありがとうございました」2人は丁寧に頭を下げた。その時である。
「店長、すみませんでした」問題のアルバイト学生だな、と今西はしまいかけていた手帳を再び取り出した。
「あなたが第一発見者のアルバイトさんですね」ここでも話を始めたのは古田だ。女性は一瞬警戒の表情を浮かべたが、意を決したように大きく深呼吸をした。
「草野みのりといいます。ここでバイトし始めてもう2年くらいになります」
「これはどうもご丁寧に。私は捜査一課の古田と申します。こっちは部下の今西です」
 一応頭は下げたが、草野みのりは今西のことなど全く目に入っていないようだ。「あの、発見時の状況をお話しても?」
 これにはさすがの古田も少し驚いたようだが、すぐに笑顔に戻って「お願いします」と言った。
 彼女の話は、とても重要なものだった。しかもしっかり整理されていて、音声をそのまま捜査会議で流してもいいくらいだった。
「どうしてここまで正確に話せるんですか?」今西は訊いた。多少の不信感があったからだ。
「死体を見て動転して変なことを口走っていると思われたくなかったので、話を整理するために少しお時間をいただいたんです」
 店長がマンガのような表情で驚いていた。よほど気の強い女なんだな、と今西は苦笑した。

4

「まずは被害者についての情報を」管理官の指示で、若手刑事が立ち上がった。
「被害者は」声が少し震えている。捜査会議が初めてのルーキーくんかな、と今西は想像した。彼にもそういう経験があったからだ。
「被害者は篠原美月25歳。職業は障がい者施設の職員です。この4月に入社したばかりでした」
 この時代によくそんな大変な仕事を選んだものだな、というのが今西の印象だった。
「死因は青酸カリによる中毒死で、死亡推定時刻は本日の午前11時から午後1時の間と推定されます」
「あの……」古田がやけにゆっくりした動作で手を挙げた。「古田、今は報告の最中だ。終わってからにしろ」
「いえ、それがですね、今の発言にあった死亡推定時刻の件なんです。よろしいでしょうか?」
 死亡推定時刻と聞いて管理官の顔色が変わった。「発言を許可する。続けろ」
「ありがとうございます。では部下の今西の方から」
 彼は古田のこういうところが苦手だった。まるで打ち合わせ通りかのように面倒な報告は今西に押し付ける。そしてこういう場合、今西に拒否権はない。彼としてももう慣れてきていた。
「第一発見者のアルバイト店員から話を聞くことができました。その証言によれば、犯人は篠原さんを殺害した直後に現場から逃走しています」
「詳しく説明しろ」言葉とは裏腹に、まだ疑っている口調だった。
「大学生の草野みのりというアルバイト店員の証言によると、死亡推定時刻である正午前に車椅子の男が店の外に出ていったそうです。草野みのりはそいつに声をかけています。『お困りですか?』というふうに。その男は『喫煙のため一旦外に出るだけだ』と答えたようです。ところが一向に戻ってこないので心配して部屋を確認してみると……」
「篠原美月の遺体だけがあった、というわけか」会議室全体の空気が張り詰めた。
「はい。そしてこの話と提出された防犯カメラ映像を照らし合わせれば犯人は確定します」捜査員全員の注目が集まる中、映像が再生される。
「被害者の篠原美月が301号室に入ります。一緒に入室する男にご注目ください」
 篠原美月の後ろから誰かが入ってきた。
「こいつは……被害者と親密な関係にありそうだな」管理官の声には少し動揺が混じっていた。無理もないな、というのが今西の感想だった。
 その男は車いすに乗っていた。
「続きをご覧ください」古田が少し大きな声を出した。全捜査員の視線が再びモニターに集中する。
「しばらくは歌ったり話したり、特に怪しい動きはありません。問題はこの先です」
 篠原美月は、男の方を向いて静止していた。その直後である。男はハンカチのようなもので包んだ瓶を取り出した。
「方法はまだ分かりません。しかしこの男は、篠原美月と顔を合わせている状態で堂々と、彼女の飲み物に青酸カリを混入したのです」
「私には、方法もおおよその見当がついています」古田が立ち上がった。
「この直後、男性は被害者の頬にキスをしています。おそらく彼は、キスをしたいけど緊張するから目を瞑ってくれないか、という意味のことを言ったのでしょう。そして実際にキスをするまでの間を利用して青酸カリを混入、というわけです。男性が被害者の恋人であるなら、突飛な想像ではないと思いますがいかがでしょうか?」
 古田が自分の推理を話すのは、それに絶対的な自信がある時だ。事実、今西も異論を挟めなかった。
 2人が乾杯し、それぞれの飲み物に口をつける。一瞬の間があって、篠原美月が苦悶の表情を浮かべた。彼女は身体を激しく痙攣させ、やがて男の首に手をかけたところで動かなくなった。一旦映像を停止させる。
「映像はこれで全部か?」
「いいえ。犯人はこの男で決まりだと思いますが、この後の行動が不可解でして」
 また映像を再生する。
 男はまず、篠原美月の口元に手を近づけた。おそらく呼吸を確認していると思われた。そして今度は脈をとっているようだ。最後にもう一度口元に手をやる。しつこいほど篠原美月の死を確認した男は、自分が持っていた青酸カリの瓶を彼女に握らせた。今度は自分が意識を失ったように首を折った。
「ここまでなら、単なる自殺偽装でしょう。防犯カメラに気づかないというのが少しお粗末ではありますが、まあ初犯で気が動転していたとも取れます。私が疑問に思うのはこの先です」
 男が意識を失っていたのはほんの数秒だった。しかし、目覚めた彼は篠原美月の身体を揺すった。先ほど入念に死を確認しているのに、である。しばらくそうした後辺りを見回して、今度は口元をハンカチで拭い始めた。これには捜査員も動揺しているようだ。そして先ほど偽装した毒入りの瓶を、なぜかしっかりと素手で握った。直後、男は彼女の首に手をかけた。少しの時間ではあったが、男は篠原美月の首を絞めたのである。その後、まるで別人かのような様子で慌てて部屋を出ていく。そこで映像が終わった。
「この犯人の行動は恐ろしく不可解です。ですが、犯人はこの男で間違いありません。そこで、管理官にご提案したいことが」
「言ってみろ」
「今回この映像を発見したのは私とここにいる今西です。被疑者の捜索から逮捕、取り調べまでを私たちに任せてはいただけないでしょうか?」
 通常、犯罪捜査はチーム戦だ。複数の重要事項がある場合、どれを誰に任せるか決めるのが管理官の仕事である。古田の提案は異例だったが、案外すんなり受け入れられた。
「確かに新人に任せていたら危険な匂いがする事件だな。よし、君の提案とやらに乗ってみよう。古田と今西は被疑者の特定と捜索、他の班はそれぞれ聞き込みだ。解散!」

 管理官をはじめ全員が引き上げても、古田は部屋に残っていた。理由は分からないが、今西もそれに倣う。
「今西くん、この事件一筋縄じゃいかなそうだよ」
「でも、犯人はあの男で決まりでしょう。決定的瞬間が防犯カメラに映ってたし、身元を調べるなんて造作もありませんよ?」
「最初に感じた違和感」彼はモニターを見ながら言った。「なぜ犯行の前半と後半で彼の態度が全く違うのか? この点を解決できなければ本当の解決とは言えないからね」
 この事件で彼は、古田から多くのことを学ぶことになる。今西の脳裏に最初に深く刻まれたのは、この言葉だった。
「彼は哀しき殺人者かもしれない」

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