崩壊するマイセルフ 最終話拡大スペシャル 審判


1

「本日はあの『カラオケ店女性殺害事件』の判決が言い渡される日です。痴情のもつれによる短絡的な犯行と思われたこの事件ですが、被告人と取り調べを担当した捜査官の口から意外な真実が語られました。なんと被告人は多重人格者であるというのです。そして犯行はもう一方の人格によるものだと。本日は予定を変更して、これまでの裁判の経過を振り返っていきたいと思います」
 今西は自宅で、報道特番の録画を見ていた。地震などの自然災害ならまだしも、殺人事件の判決で特番が組まれるなんていつ以来だろうか。少なくとも今西の記憶にはなかった。それだけ今回の事件の持つ意味が大きいということだ。事件というよりも、犯人の方かもしれないが。
 あの判決の日を、今西は今でもはっきりと覚えている。

2

 交際相手である篠原美月さんを殺害したとして逮捕、起訴されたのは山下亮被告25歳。被告は取り調べ段階から素直に罪を認め、「自分には生きている資格がない。死刑にしてください」と供述していました。
 しかし犯行の経緯に疑問を持ったのが、担当刑事の古田剛警部と今西三郎巡査部長。彼らは、事件が山下被告の意思によって引き起こされたものではない可能性を探り始めます。

 いきなり自分の名前が出たので今西は面食らった。事件解決後に古田がテレビの取材を受けていたのは知っていたが、まさかあの上司が自分の名前まで出していようとは思わなかった。しかし、今西も古田と同種の疑問を持ったのは事実だ。古田がいなければ事件の真相は今も闇の中だっただろう。
 番組は続いていく。古田の発言が紹介されている。

「確かに最初に疑問を抱いたのは私だったかもしれません。しかし私1人ではここまで辿り着けなかった。今西という部下が私の勘に付き合ってくれました。そして山下さんも最後には包み隠さず話してくれた。山下さんはこの事件の加害者であると同時に、被害者でもあったと考えています」
 古田警部がこのような発言をしたのには理由があります。山下被告は解離性同一障害という病を患っていました。いわゆる多重人格です。山下被告を担当していた医師は、法廷でこう証言しています。
「山下さんの症状はかなり重いものです。もう一方の人格は山下さんが得た情報を共有していますが、その逆はされていません。つまり、もう一方の人格によって殺人が成されたとしたら、それを主人格である山下さんが知ることは不可能です」
 この医師は、古田警部が参考人として聴取した人でした。警察でも同様の証言がされています。
 この証言をきっかけに、事件は大きく展開します。

3

 山下被告が篠原美月さんと知り合ったのは、「フラワー」という就労支援施設に通い始めた頃でした。
 就労支援施設とは、一般企業に就職するのが難しい障がい者に仕事を提供する施設です。大きい金額ではありませんが、きちんと給料も支払われます。彼の施設での収入は月5万円程度でした。
 とは言え障害者年金暮らしである山下被告。生活に余裕はありません。前回の特集でもお伝えしたように、山下被告の両親は彼が高校を卒業するまでに彼の元からいなくなっています。そんな彼の孤独を埋めてくれたのが篠原美月さんだったのです。ここからは法廷での山下被告や証人たちの発言を元に制作した再現ドラマをご覧下さい。

 そこからは再現ドラマが始まった。時々ドラマらしい誇張はあるが、大筋は山下が法廷で証言した内容だった。

 山下と篠原さんが出会ったのは事件の2年前。カラオケ店だった。彼の趣味は1人カラオケ。篠原さんは彼の行きつけであるカラオケ店の店長を務めていた。
「すみません。どこか部屋は空いていますか?」
「お客様は1名様でしょうか?」
「はい、そうですが」これが最初の会話だった。山下は最初、この質問に疑問を感じたという。
「では1階のお部屋にご案内しますね。それと、入室後でも何かご不便がありましたら遠慮なく私を呼んでください。店長の篠原といいます」
 この言葉に、山下はホッとしたという。それまでの彼にとって他人とは、決して関わってはいけない存在だった。他人とは自分を見下し、差別する存在。これまでの人生でそんなふうに学んできたから、自分のことを気にしてくれる他人が存在すること、ましてそれが異性であることなど思いもよらなかった。
 この人と仲良くなりたい、と思った。
 もちろんしばらくは単なる店員と客の関係だった。その均衡が崩れたきっかけは篠原さんだった。
 山下は月に一度程度のペースで、カラオケに通った。行きつけの店はいくつかあったが、篠原さんと出会って以降行く店を固定していた。もちろんだからといって何が起きるわけでもない。しかしこの頃には篠原さんに対する好意を、はっきりと認識していたという。
『僕から気持ちを伝えてみようか? でも障がい者の恋心なんて彼女にとっては迷惑なだけだよなぁ』
 そんなふうに悶々と考えていたある日のこと。
「山下さんって、定期的にうち利用してくれますよね? もしかしてカラオケ趣味なんですか?」
「ええ。本当は友だちとか誘いたいんですけど、この身体だとどうしても相手に迷惑がかかってしまうので。必然的に1人カラオケが趣味になりました」
「じゃあ、山下さんは誰かと一緒に歌いたいんですか?」
「……まあ、そうですね。本音を言えば1人は虚しいです。聴いてくれる人もいないし」
「私とだったらどうですか?」
 一瞬言葉の意味が分からなかった。それで思わず「はあ?」と聞き返してしまった。
「あの、嫌だったら全然いいんです! 山下さん優しそうだし、いつも話しかけてくれるし、仲良くなれたらいいなって思ったんですけど……」
 山下はこの時になって初めて、自分が誘いを受けているのだと気づいた。
「あの、嫌なんてことはないです! むしろあなたの方が嫌じゃないんですか? だって僕、車いすですよ? 普通ならしなくてもいい嫌な思いを、僕のせいであなたにまでさせるかもしれない」
「もしそうなったとしても、その時はその時です。もし本当に嫌だと思ったら、それはちゃんと山下さんに伝えます。少なくとも今の私は、山下さんとプライベートでも会って、お話したり歌ったりしてみたいんです。あなたが優しい人なのは、見ていれば分かるから」
 普段から他人を信用しないように生きてきた山下にとって、篠原さんの出現は大きな転機となった。2人が恋人になるまで、さほど時間はかからなかった。

4

「店長になれたのはいいんだけど、精神的にも身体的にも結構激務でさ。転職しようかと思ってる」
 2人が付き合い始めて数ヶ月が過ぎた頃、山下は切り出された。実は彼としても篠原さんには転職を考えてほしかった。
 付き合い始めたまではよかったが、2人が会える回数はさほど増えなかった。それどころかメッセージすら数日既読も付かなかった。
『今時の若い女の子って、こんな感じなのか?』
 山下には女性と向き合った経験が少なかった。ここで怒ってしまったら彼女を傷つけてしまうのではないかという思いが彼の頭を占拠した。山下は我慢することを選んだ。
「いいんじゃない? ずっと言えなかったけど、最近の美月は会うたびに太っていくじゃん? それも深夜の激務が影響してるんじゃないかなぁって」
「否定はできないかな。休憩時間にカラオケの料理で腹ごしらえしてるから。どうしても摂取カロリーが多くなっちゃう」
 その上帰宅はいつも深夜。篠原さんは質のいい睡眠も取れていなかった。
「アルバイトから正社員になって店長まで上り詰めたのはすごいと思う。尊敬するよ。でも美月の命より大切なものなんてないんだよ。僕は、美月には元気でいてほしい」
 こうして篠原さんはカラオケ店を退職。新しい仕事を探し始めた。その間金銭的な問題もあって2人はしばらく会えなくなったが、今度は山下にとって苦ではなかった。
 しかし、多少の孤独感を感じていたことも事実である。

 山下がある日目を覚ますと、メモが落ちていた。明らかに自分の筆跡ではなかった。そこにはこう書かれていた。
『久しぶりだな。ずいぶん幸せそうじゃないか? ユウヤ』
 彼の多重人格が発症したのは、母親が亡くなった時だった。記憶が飛ぶことが多くなり、病院に行ったのだ。
「この病気は、強いショックがきっかけになることが多いです。山下さんの場合、お母さんが亡くなったことが原因と思われます。その時に強いストレスを感じませんでしたか?」
「そりゃあ、人並みにショックは受けたと思います」
 人は強いストレスにさらされた時、「この辛い思いをしているのは自分じゃない」と思い込む時がある。それがこの病気の始まりだ。
 ユウヤという名前は、彼が初めて山下にメモを残した時に使っていた名前だ。しかしたとえ現れたとしても、今回のようにメモを残すのは稀だった。
 だからこそ山下は不安になった。
 次の日もまたメモが残っていた。ユウヤの字だ。
『彼女、結構美人だな。お前だけ幸せになりやがって』
 この時山下は、ユウヤが何かよからぬことを企んでいると悟った。そしてこんなメッセージを送った。
「新しい仕事決まるまでは、僕のことは気にしないでいいよ。今は自分のことに集中してくれることが、僕にとっても嬉しいから」
 既読になってから返信が来るまで5分以上かかった。返事は「了解」の一言だった。
 これでしばらくは美月と顔を合わせなくて済む。ユウヤと美月を会わせずに済むかもしれない。そう考えると少しホッとしたが、同時にまた孤独感に襲われた。山下は1人で号泣した。

5

 それから3ヶ月ほど経って、久しぶりに篠原さんから連絡があった。無事に就職が決まったというのだ。山下は急いで電話をかけた。
「おめでとう。どんな仕事なの?」
「久しぶりの連絡で最初の言葉がそれ? ちょっとショックだな。寂しくなかったの?」
「そんなことはないけど、こっちもこっちでそれなりに忙しくしてたからさ。でも、そろそろ会いたいなとは思ってた」
 本当は「会いたい」なんていうつもりはなかった。ユウヤの問題が結局解決していなかったからだ。この状況で会う約束をしてしまえば、必ずユウヤが邪魔をしてくることは容易に想像できた。山下はこの時の心情を法廷で「恋人に会いたいという気持ちはずっとあった。美月から連絡が来たことで気が緩んでしまった」と証言している。
 2人は半年ぶりに会うことになった。場所は思い出のカラオケ店。そう、事件現場である。

6

 篠原さんは、その日のためにピアスを開けて行った。
「亮くんなら気づいてくれるよね」そんな期待を胸に秘めて。
 一方山下には、約束の日の数日前から記憶がないという。おそらく意識はユウヤに乗っ取られていたのだろう。
 カラオケ店に先にたどり着いたのは山下の方だった。いや、すでにこの時にはユウヤだったと思われる。予約時間の30分ほど前から、受付の前で待っていたという店員の証言がある。防犯カメラにもその様子がしっかりと記録されていた。
 そして待ち合わせ時間の10時。2人は301号室へ入室した。
 ここからは、警察が発表した情報を元に作成したVTRである。
 入室後1時間程度は、2人とも楽しそうに歌っていた。映像を見る限りは幸せそうなカップルそのものだが、この時点でユウヤの殺人計画はスタートしていた。
 ユウヤはまず、篠原さんのピアスを褒めた。直後彼女は目を閉じる。
「就職祝いのプレゼントがあるんだ。準備するから目を閉じて待っていてほしい」というようなことを言ったのだろうというのが裁判での検察の意見だ。そして彼女がプレゼントに胸を躍らせている間に、ユウヤは堂々と篠原さんの飲み物に青酸カリを混入した。青酸カリは山下が一人暮らしを始める前、母と暮らしていた家で身体をユウヤに乗っ取られ、ユウヤが物置から盗んだものだという。
「僕の実家では祖母の代から、ネズミを駆除するのに使っていました。余っているものがあるのは知っていたけど、どうやって処分していいか分からなくて……。理科室にあるような茶褐色の瓶に入れて物置で保管していたんですが、まさかそのままユウヤに利用されるとは」
 ユウヤが得た情報は山下には共有されない。ユウヤは何年も前から、殺人を計画していたことになる。
 ところで、ユウヤが篠原さんに用意したプレゼントはキスだった。ここからは山下にも朧げながら記憶があるという。
「あれが僕にとってのファーストキスです。できれば山下亮として、美月にキスしたかった」
 その後2人は乾杯をした。直後篠原さんが苦しみ始める。
「うっ! くぅ……、どう……して……」
 悶え苦しむ篠原さんの耳元で、ユウヤは何か囁いた。この時何と言ったのかは、裁判でも明らかになっていない。しかし篠原さんが驚愕の表情を浮かべる様子が、法廷で流された。

 この事件は裁判員裁判だった。今西が傍聴に行った時も、被害者の死亡時の写真が映し出されていた記憶がある。しかし、まさか死の瞬間の映像まで流されているとは思わなかった。番組は続く。

 こうして篠原さんは亡くなった。直後、彼は意識を失ったようにがっくりと首を折る。ユウヤから山下亮に戻った瞬間だった。ここからは、山下の法廷での最後の証言を紹介する。
「ユウヤから身体を取り戻した時、美月はすでに亡くなっていました。彼女の目の前には、青酸カリの瓶があった。それで私はすべてを理解しました。ユウヤが彼女を自殺に見せかけて殺したのだと。私はもう、逃げる気はなかった。だから瓶を自分で握って指紋をつけました。首を絞めたのも、これは殺人事件だと確実に認識してもらうためです。
 私にできたのは、辛そうに見開いた目と、虚しく開きっぱなしになってしまった口を閉じさせてあげることだけでした。逃走したのは、気持ちを整理する時間がほしかったからです。辛すぎて、あまり強くは絞められませんでした。だから追跡から逃れようなんて、最初から思っていませんでした。出頭の前に落ち着いて考えたくなって、自宅に戻りました。いざとなったら決心がつかなくて、結局古田さんたちに逮捕されることになりましたが」
 山下はこう証言し、「他の人格のしたこととはいえ、自分の責任ではないとは思わない。むしろ私が罰を受けて罪を償うべきと考えています」と続けた。
 そして、今日が判決の日である。

7

 そこまで見て、今西は録画をストップした。ここからはテレビ番組よりも、自分の記憶の方がリアルだ。
 山下に言い渡された判決は、懲役8年というものだった。今西は判決理由を述べる裁判長の言葉を、あの日から2年が経った今でも鮮明に覚えている。裁判長は山下に語りかけるようにこう言った。
「被告人の殺人罪は、完全に成立すると判断しました。責任能力なしの無罪という意見も出ましたが、被告本人がそれを望んでいなかったため、このような判決になりました。被告人にはこの8年を、罪を償うことと同時に解離性同一性障害の治療に充ててほしいと思います」
 ここで裁判長は言葉を切った。そして「最後に個人的に被告人に伝えたいことがあります」と言ったのだ。
「篠原美月さんを殺害したのは確かにあなたです。しかし、山下亮さんは悪くない。本当に裁かれるべき被告人はユウヤなる人物です。彼に直接言葉を伝えられないのが残念でならない」
 山下は泣き崩れた。そしてしきりに「美月ごめん」と叫んでいた。傍聴人も、何人か涙を堪えていた。

 古田とはあの日以来会っていない。判決が確定した後、刑事を辞めたらしかった。今西が上司からそれを聞かされたのは判決確定から1週間ほどした頃だった。
「古田からお前宛に手紙を預かっている。1人で読め。それが古田からの最後の命令だ」
 彼は帰宅後に封筒を開けた。そこには丁寧な字でこう書かれていた。

 今西くん、私は警察を去る決断をしたよ。
 山下さんの違和感を感じていながら、結局何もできなかった。真相を解明しただけで、誰も救えなかった。おそらく今西くんも同じ気持ちだろう。
 でも、君はまだ若い。この事件を教訓にして、今西くんだからできる捜査、真相究明のやり方というものを見つけてほしい。君が部下で本当によかったよ。今までありがとう。古田

 何で辞めちまうんだと怒鳴りたい気分だった。しかし同時に、あの人らしいとも思ってしまった。
「もうこれは俺の負けだな」
 今西は決意した。古田を越えてやろうと。
 彼が「警視庁の最後のエース」と呼ばれ始めるのはここからさらに3年後のことだ。

 

この作品を、私の無二の親友に贈ります。読者のみなさん、連載を読んでいただきありがとうございました。

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