「崩壊するマイセルフ」第2話 対峙


1

 最初の捜査会議からまもなく5日が経とうとしている。今西と古田は被疑者の身元を特定していた。
「助かりましたね古田さん。まさか予約者名簿に載っていた苗字が本名だったとは」
 現場となったカラオケ店から予約者名簿を押収したのだ。もともと「捜査協力は惜しみません」と言っていた店長だったので、面倒な手続きは踏まずに済んだのだった。
 被害者は山下という名前で予約していた。最初から2名の利用で予約が入ったという。
「1人が車椅子利用者なので、1階で一番広い部屋をお願いしたいです」という指定まであったらしい。電話の声は男だったという草野みのりの証言もあり、山下を第一被疑者として捜査員全体が動き出していた。
「色々と気になるねぇ。順調に行きすぎてる気がするんだよ」と古田は不満そうだった。今西としても同じ感想で、若干の不気味さすら感じていた。しかし犯行の瞬間の映像が残っている以上、山下から事情を聞けないことにはこの事件は動かない。
 やがて、山下亮というフルネームが分かった。山下の家は現場のカラオケ店から徒歩でも5分とかからない場所だった。映像に映っていた男と人相が似ていたこと、さらに山下が身体障害者手帳を持っていると確認できたことが、古田と今西の中で決め手になった。

 2回目の捜査会議で今西たちは、山下亮について報告した。管理官の決断は早かった。
「今この瞬間から、山下亮を本件の重要参考人とする。古田と今西は山下の自宅を当たれ。その他の班は手分けして山下が潜伏しそうな場所に向かえ。こちらの動きが察知されている可能性がある。やつから逃げ場を奪え」
 捜査員の「了解」という返事にも、これまでより気合いが入っている気がした。

2

 今西は山下亮の自宅前で車を停めていた。もちろん彼の隣には古田がいる。
「どこ行ってんでしょうね。働いてもいないくせに」
「今西くん、それは偏見だよ。仕事を探しに出かけた可能性もあるでしょう」
 山下が障害者年金で生活していることは調べがついていた。何年か前までは障がい者が専門に働ける施設に通所していたようだが、行く先々でスタッフにいじめられた挙句、最後には怪我を負った。それをきっかけに精神を病んでしまい、今では引きこもりに近い生活を送っている、というのが彼を担当する相談員の話だった。
「あの相談員さん、本気で山下のことを気にかけているようでしたね」
「まあ、腹の中までは見通せないけどね」
 障がい者をサポートするのが相談員の仕事だが、それを放棄している人も多いらしいというのを今西は知っていた。古田が教えてくれたのだ。
「自分が通う施設の交渉を本人やその家族がやる、というケースもままあるんだよ。本来ならいけないことなんだけど、相談員が全く役に立たないって言ってね。彼らが職務放棄したせいとも言えるよね」
「やけに障がい者側に立ってますね。何かあったんですか?」
「その『障がい者』っていう表現がまずよくないと思うわけ。害という字を使うのは好ましくないと言っておきながら、制度や手帳の名称にはそれを使う。人間は遅かれ早かれいつか障がい者になるんっていうのに、差別を助長するような言い分を通すんだ当事者の意見なんか聞かずに。どこにも異常がなく、普通の毎日の延長線上で眠るように亡くなるっていうのはフィクションの世界だけだよ」
 障がいの件については少し論理が飛躍しすぎているような気がした。しかし古田の言っていることは概ね正しいように今西には思えた。
「今西くん、山下が帰ってきたよ」
「踏み込みますか?」
「そうだね。慎重にいこうか」
 山下の自宅には、インターホンがなかった。今西がドアをノックする。
「山下亮さん、警察の者です。少しお話を聞かせていただきたいのですが」
 ドアは意外なほどすんなり開いた。「お待ちしていました」
 山下亮は車いすで現れた。「僕のことはもう調査済みでしょう。これがないと家の中の移動すらままならないんです。すみません」表情こそ笑顔だが、謝る時だけ声がワントーン低くなった。障がいを理由に理不尽な思いをしたことがあったのかな、と今西は想像した。
「謝らなくて大丈夫ですよ。障がいは決してあなたの落ち度ではありませんから。我々は捜査一課のものです。私が古田で、こっちが今西です。あなたが山下亮さんで間違いないですね?」
 今西が今まで目にしてきた殺人犯という人種は、動機がなんであれ目の奥に闇のようなものを宿していた。しかし山下には、それが全く感じられなかった。
「あなたにある事件の容疑がかかっています。できれば署の方で詳しくお話を伺いたいのですが」
「ええ。結構です。じゃあ行きましょうか」
「準備が整っているんですか?」今西は思わず訊いてしまった。古田も質問した。
「どういった事件かは気になりませんか?」
「当然でしょう。近くのカラオケ店の一室で篠原美月を毒殺したのは、他ならぬ僕ですから」
 この答えにはさすがの古田でさえフリーズしていた。

3

 通常、犯人というのは「いかにして罪から逃れるか」を第一優先に考える。ところが連行してきた山下は驚くほど素直に篠原美月を殺害したことを認めた。周りの捜査員たちは「あっけない事件だった」ともう一件落着ムードを醸し出している。今西は納得がいかなかった。
 古田がずっと口にしていた「違和感」がここに来て大きな意味を持つような気がしているのだ。優秀な上司がずっと「この事件は順調すぎる」と首を捻っていたのを、今西は鮮明に記憶している。
「今西、浮かない顔だな」彼が思考の海に潜りかけていた時、後ろから声をかけられた。同期で今は部署も一緒の小田だった。
「なあ小田、あの被疑者どう思う?」
「どう思うって言われてもなぁ……。殺人を計画してそれを達成したはいいけど、個室にも防犯カメラがあることを犯行後に思い出した。それでもう逃げられないと悟って、お前たちが来るのを待ってたんじゃないか?」
「でもそれだったら、防犯カメラに気付いた時点で自首すればいいじゃないか。その方が罪が軽くなるかもしれないとは考えなかったのかな」今西は多少ムキになっていた。
「そんなの知らねーよ。でも、そうか。それでずっと引っかかってるわけだ」
 小田は腕を組んでしばらく唸っていたが、やがて言いづらそうに口を開いた。
「罪を軽くしたくなかったとしたらどうだ? 例えばだけど、極刑を望んでるとかさ」
 新たな視点だった。「なるほど、参考になったよ。ありがとう」
「お前が素直に感謝とか、気持ち悪いぞ」小田は茶化すような声を出した。直後、呼び出しがあった。
「今西、これから被疑者の取り調べだ。古田さんがお前にも立ち会ってほしいって」

4

「どうして僕を呼んでくれたんですか?」
「彼、完全黙秘らしいんだよ。それでいて私にならすべてを話すって言ってるんだって」
「じゃあ僕がいたら逆効果なんじゃ……」
「それは私からお願いしたんだ。今西くんは私が最も目をかけている人間だからって言ってね。訪問時と同じようにすんなり了承してくれたよ」
 今西としてもこの事件には最後まで関わりたいと思っていた。それだけに思うことがあった。
「山下亮……でしたっけ。そいつ、なんらかの確固たる意志を持って行動してるような気がしますね。今回にしても、自分を捕まえにきた僕たち以外を排除したいかのような‥‥」
 古田は大きく頷いた。「取り調べは私が担当する。私の疑問点を彼にぶつけてみようと思う。君は記録係として、私と山下亮のやり取りをしっかり残しておいてほしい。君自身が疑問に思うことがあれば、割って入ってもらって構わない」
 なんだか複雑な話になってきたな、と今西は思っていた。面倒くさいと思いつつも、山下亮の仮面を剥ぎ取ってやりたいという気持ちにもなった。
「今西くん、あまり感情的にならないように、と一応言っておこう。でもね、おそらく私も君と同じ気持ちだよ。だから君を呼んだんだ」

 山下亮が入ってきた。改めて顔をよく見ると、あまり整っているとはいえない顔立ちだった。付き添いの刑事は後ろにいて、彼は自らの手で車いすを漕いでいた。
「お久しぶりですね山下さん。今回はご指名いただきありがとうございます」古田が頭を下げたので、今西もそれに倣う。「僕のことも覚えていますか?」
「ええ。それはもうはっきりと」山下の声は小さかったが、それでもよく通った。「古田さんと今西さんでしたよね。今回は私を捕まえてくださってありがとうございました」
 今西は山下を睨みつけた。馬鹿にされていると思ったからだった。しかし山下からは敵意はおろか、何の感情も読み取れない。
「事件についてお話し下さるんですよね?」
「あなた方にだったら」山下は頷いたが、ここでも彼は表情を変えない。「最短でいきましょう」
「分かりました。では最初に、殺害時の状況から聞かせてください」
 それから語られた事件のあらましに大きな矛盾点はなかった。ただひとつを除いては。今西はそこを突いてみた。
「山下さん、あなたは篠原さんを毒殺後、首を絞めていますよね。しかも素手でです。青酸カリの瓶に残っていたのは篠原さんの指紋だけだった。そのままにしておけばすぐに絶命はしなくともいずれかは死に至ったはずです。なぜわざわざ証拠を残すような真似を?」
「よく分からないんです。確かに首を絞めた記憶はありますが、自分でも迂闊だったと思うくらいで。行動の理由って、そこまで重要ですかね」この時、古田が何かを発見した。今西は制されたことでそれを理解した。
「山下さん、あなた嘘をついておられる」
「何でそんなことが言えるんですか? 物証も揃っているんだし、私の供述がすべてでしょう?」山下の顔に焦りが浮かんだ。今西が見た初めての動揺だった。古田は立ち上がってさらに続ける。
「首を絞めるというのは、相手に強い恨みを持っている人間がすることです。ましてやあなたは青酸カリを飲ませた後に、呼吸の有無まで確認してから首を絞めた。確実に殺したいという強い殺意の結果ですよね? それなのに『なんとなく』なんていう理由が通用すると思いましたか? あなたは明確すぎるほど明確な殺意を持って、篠原美月さんを殺害したんです。いい加減に本当の動機を語ってください」
 古田の言葉の途中から山下は「違う」と呟いていた。声量は小さいがしっかりとした意志を感じた。
「僕はずっと美月を愛していた! 殺したいと思ったことなんかただの一度もない!」
「……やっとあなたの本音が聞けたようだ」古田の表情は、先ほどとは打って変わって柔和になっていた。
「すべて話してください。本来ならあなたは、篠原美月さんを殺すことなんかなかったはずなんです」
「でも、何を言っても僕の罪は変わりません。それに古田さんたちは、殺人犯の戯言を信じるんですか?」
「自分は」今西は口を開いていた。「殺人犯だからとかそんな理由では人の話を疑いません。古田さんもそうです。刑事っていうのは、人の心と向き合うのも仕事ですから。それが被疑者であろうと目撃者であろうと、我々が予断を持つことはありません。少なくとも、僕は」
 古田は驚いたようだ。しかしすぐに今西に頷きかけた。「彼もこう言っています。すべて話してみてください」
「でも、僕の話は長くなります」
「こちらはいくらでも時間をとります。ただし」古田の表情には余裕が戻っている。そして一本指を立てて、こう言った。「これからは、嘘やごまかしは厳禁ですよ」

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