小説「崩壊するマイセルフ」プロローグ

 今日は朝から嫌な天気だった。梅雨だというのに一滴の雨も降らず、それどころか真夏日を記録していた。
 俺は暑いのが苦手だった。普段から自分の居場所に篭らざるを得ず、ろくに外に出られないのが原因だと分かっている。そしてそれは、「あいつ」のせいだということも。
 あいつは暑くて天気がいいのが好きだった。「雨だと外に出られないじゃないか」とよく文句を言っていた。皮肉なものだ。あいつが大好きな快晴の日に、奴の人生は終わるのだから。

 待ち合わせのきっかり10分前に、女は現れた。さほど派手な印象はないが、恋人と出かけることを意識しているのだろうと思えるような格好だった。
 あいつの恋人はこんなに美人なのか……。
 俺にとっての彼女はあいつへの復讐の道具でしかない。容姿なんかはどうでもいいはずだった。しかし、彼女には人の視線を釘付けにする「何か」があった。
「ごめんね。待った?」女は笑顔を向けてきた。
「いや、今来たところだよ。それに美月、まだ時間より早いぜ」俺は初めて女の名前を呼んだ。
「じゃあ、行こうか。今日はいっぱい歌おうぜ!」俺のセリフは、いつも通りだ。いや、正確には「いつものあいつと同じ」だ。いよいよ計画を実行する時が来た。

「亮、なんか気づかない?」どうやら美月は何か特別なことをしてきたようだ。しまったと思った。俺は美月の「普段」を知らない。ビジュアルの些細な変化なんて注意して見たことはないのだ。あいつならすぐに気付くのだろう。
「メイク変えたとか?」もちろん適当だ。案の定外れた。
「これ」美月は不満そうに自分の耳を指さす。そこには光るものがあった。
「あ、ピアスじゃん」
「リアクション薄いよ? 可愛いでしょ?」美月の声のトーンが上がった。怒っているというより、訝しんでいる感じだ。これはまずい。
「おお、めっちゃ可愛いと思うよ」取り繕った感は拭えないが、一応笑顔は作った。
「喜んでくれたなら、まあいいんだけど」
 俺としてはこれ以上墓穴を掘るわけにはいかなかった。もう少しこの女をからかって遊んでいたかったが、時間はあまりない。
「美月、就職祝いまだしてなかったよな? 俺からのささやかなプレゼント、受け取ってくれる?」
「そんなに気を遣わなくていいのに」喜びというより、心底申し訳ないという表情だった。俺はひたすら練習した笑顔を女に向ける。「大丈夫。そんなに大したものじゃない。でも、驚かせたいから目、閉じてくれる?」
 美月は言われるがまま目を閉じる。これから俺がしようとしていることなど、予想もしていないだろう。用意した薬を、彼女が飲んでいるカフェオレに混ぜる。途中「ねえ、まだ?」という声が聞こえた。どうやらゆっくりしすぎたようだ。心を無にして、唇を重ねる。
「これが俺からの就職祝い。ファーストキスのプレゼントだよ。びっくりした?」
「当たり前じゃん!」女は頬を膨らませた。しかし直後に小さな声で「でも、嫌じゃなかった」と言った。
「いやー緊張した。まだ心臓ドキドキしてるわ。ちょっと落ち着きたいでしょ。ソフトドリンクだけど、乾杯しない?」
「なんでいきなり乾杯?」
「アメリカだかイギリスだか、とにかく外国の言い伝えだと思うんだけどさ。恋人同士で乾杯して、お互い愛を誓い合うとその願いは叶うっていう話を聞いたことがあって。ロマンチックじゃない?」
「キス以上にロマンチックなことなんてないと思うけどなぁ。やっぱり亮は子どもっぽいね」彼女は戸惑ったようだが、心底嬉しそうだった。グラスを持つ動作に躊躇いはない。計算通りだ。
「美月、愛してるよ」
「私も亮のこと、愛してるよ」
「めっちゃ照れるなこれ」
「亮が言い出したんでしょ?」
「美月の就職を祝って、乾杯!」
「無かったことにしようとしないの! 乾杯!」
 女は微笑みを浮かべたまま、何の疑いもなくカフェオレを飲んだ。
「乾杯するといつもより美味しい気がする……うっ!」
 美月は喉を掻きむしりながら呻き声を上げた。何か言葉を発しようとしているようだが、聞こえてくるのは咳と苦しそうな息遣いだけだ。
「うっ! くぅ……、どう……して……」かろうじて言葉が聞き取れた。それで改めて女の表情を観察すると、明らかに動転していた。俺としては見たかった表情だ。苦しむ彼女を抱き寄せ、こう言ってやった。
「俺はずっと、お前を殺してやろうと思ってたんだよ」
 その言葉は彼女の耳に届いたらしい。相変わらず息を切らしながら「うっ!」と俺の首に手を伸ばした。その表情は動揺から、憎悪に変わっていた。
 結局、女の手が俺の首に届くことはなかった。毒が回り切ったのだろう。美月は目を開いたまま死んだ。何の因果か、俺の方に顔を向けていた。これはいい。この状況を利用してやろう。
 これであいつの精神的ダメージは計り知れないものになる。そうなれば俺の目的は達成だ。俺は安全な場所で、この事件の顛末と苦しむあいつの顔を最後まで見届けてやろう。俺の出番はここまでだ。

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