俺と女神と小悪魔と 第4話 着せ替え人形
楽あれば苦あり、苦あれば楽ありって言うよな。あれは本当だった。
俺はどれだけSF的なことに巻き込まれればいいのか。幸せの絶頂だと思っていたのに、突然不安のピークが訪れる。その不安を払拭するために、死に物狂いで走り回る。そんな経験、読者の皆さんにもあるんだろうか?
梅雨の時期って、気分が沈みがちだよな。俺も例外じゃない。アラサーと呼ばれるような年齢になっても、梅雨には苦い思い出しかない。結局は事なきを得たけれど、本当にヤバい状況だった。
俺は、どこで間違ったんだ? もしかしたら最初からか? 10年経った今でも、答えが出ないんだ。
読んでくれている人たちにも、一緒に考えてみてほしい。
小説
俺が美月に告白をしてから1か月が経とうとしていた。といっても、あの告白以降何か変化があったわけじゃない。お互いに忙しくて、教室で雑談するくらいのことしかできていなかった。
「そろそろ、もう一回くらいデートしたいな」という話はどちらからともなく出るんだが、いかんせんゴールデンウィークに遊びすぎた。課題が山積みなのである。
「いい加減、課題減らしてくださいよ。これじゃ俺たち、夏休みなんてあってないようなもんですよ?」田口先生に頼んでみるが、無理なことは分かっていた。
先生にしても、俺たちをくっつけるために尽力してくれたのである。俺たちがデートに行けるように、課題の提出期限を先延ばしにしてくれたりしたらしい。ただひとつだけ彼女に恨みがあるとすれば、課題など最初から存在しないかのようにふるまっていたこと。「だってデートなのに、課題のことなんて考えたくなかったでしょ?」と言われてしまうと、ぐうの音も出ないのだが。
さらに問題なのは、美月がその山積みの課題を一瞬で終わらせてしまったことだ。作文コンクールの〆切やら、美術の絵画やら面倒くさいものがたくさんあったのに。それらすべてを5月中旬にはしっかり終わらせていた。こうなると、6月に入っても半分の量すらこなせていない俺は文句を言うばかりだった。
「なあ美月、俺の課題も少し手伝ってくれないか? 作文とか、アイディアをくれるだけでもいいからさ」
「アイディアって言うけどさ」彼女はため息をつく。「龍一の場合は作文たくさんあるんだもん。安請け合いしなきゃよかったのに」手には筆、目の前にはキャンバス。美月は俺の話を聞きながら、美術の課題をやっている。もちろん俺のだ。かれこれ2時間もやっていると、さすがの彼女も機嫌が悪くなり始めていた。
実は俺が作文をたくさん抱えているのは、他ならぬ美月が「作文なんて、頭痛くなっちゃう」と大騒ぎして拒否したからだった。クラスで一作は絶対に提出しなければいけない課題もあった。当然それらはすべて俺が引き受ける羽目になった。人権問題に自分の将来、挙げ句の果ては「あなたの大切な人について書いてください」なんていうお題もあった。最後のやつを入れたのは間違いなく田口先生だろう。全くあの人は。
しかしまあ、その辺のやつはどうでもいい。比較的早い段階で終わっているから。最後まで手がつけられないでいるのは、「小説を書きなさい」というものだった。「身近にある、あなたが感じる幸せをテーマにした作品。文体、枚数は問わない」という注釈までつけてある。
これじゃあまるで原稿の執筆依頼だなぁ、と思った。俺は今でこそこうやって文章を書いているが、当時はまだただの作家志望の高校生である。人よりちょっと小説を読むのが好きなだけで、自分に文才があるだなんてこれっぽっちも思っていなかった。
「龍一。なんでこのテーマで悩むの?」あまりに突然だったので、椅子から転げ落ちそうになった。
「なんでって、小説書くんだぞ? 題材とかしっかり決めないと、途中で止まっちゃうだろ」
「題材ならもうあるよ?」彼女は自分を指さして「私がいるじゃん!」と俺の目を見つめてきた。
「こうなると思ったからこれだけは相談しなかったのに」
「なんか言った?」
「助かったって言った。美月のことならいくらでも書けそうだ。ありがとう」そう応えるしかなかった。もしこの世界にタイムマシンがあったら、俺は絶対にここに戻って小説の題材を変えさせるだろう。
呼び出し
最初のうちはよかった。確かに題材さえ決まれば、キャラクターやストーリー展開なんかはいくらでも思いつく。序盤の第1章くらいまでは、たったの半日で仕上げた。今まで、アイディアはあったが書き始められなかった小説。鉛筆を走らせているだけで快感を覚えた。
だが、しばらくして致命的なミスを犯していることに気づいた。
「先生、ちょっと相談なんですが、この小説って絶対原稿用紙で完成させなきゃいけませんか?」
田口先生は、この展開を予想していたらしい。盛大に大笑いした後、「もちろん」と言ってくれた。
「龍一くんのことだから、絶対1回じゃ完成させられないでしょ。どこへ出しても恥ずかしくないように、何回かは書き直すだろうなって思ってた」
「先生には敵わないですね。そうです。今、新しいアイディアが浮かんだんですけど、このままだと修正に天文学的な時間がかかるなって気づいて」照れくさくなって、頭を掻いた。力加減を間違えて結構痛かったが、それは顔に出さない。
「龍一くんのペースで書き直してたら、学校にある原稿用紙全部使っちゃいそうだし」先生の手にはノートパソコンがある。
「どうせ他の課題は彼女に任せたんでしょ? その件はお咎めなしにしてあげるから、絶対いい作品を仕上げてね。それと」パソコンが目の前に置かれた。「これは、リーダーからのプレゼントなんだって。ちゃんとお礼しておきなよ」
SSチームの存在を理解してからというもの、リーダーのサービス精神が一層強くなっていた。美月が言うには「龍一が夢を追うために、味方になってくれる大人がいたほうがいいから」と俺を買ってくれているらしい。俺も徐々にではあるが、リーダーを信頼し始めていた。彼は土壌は整えてくれるが、その評価には一切の妥協がなかった。だからこそチームのリーダーになれているのだろうが、その姿勢は俺の憧れですらあった。
「ちょうどリーダーも用があるって言ってたから、今から行ってみたら? 緊急じゃないけど、なるべく早くって伝えてほしいって」
鼓動が早くなるのが分かった。リーダーからの緊急の呼び出し。いい予感はしない。しかしだからといって無視するわけにもいかないので、パソコンを受け取って校長室へ向かう。
リーダーは相変わらず仮面をつけていた。そのせいで表情は分からないが、俺の訪問を喜んでいるように感じられた。
「緊急で呼び出しだなんて、寿命縮みますって」俺は結構切羽詰まっていたのに、彼は笑った。
「緊急だとは言ってない。パソコンを受け取ったのならなるべく早く来るように、と伝言を頼んだだけだ」
「パソコン? って、さっきプレゼントしてもらったこれですよね?」持ってきた物を置くと、リーダーは少し驚いたようだった。「持ってこいとは言わなかったはずだが」
「言われてません。ただ、プレゼントってことで頂いたのなら、お礼がしたいと思って」本当は田口先生が持っていけとアドバイスをくれた、とは言わなかった。その方が印象がいいからだ。
「礼なんかいらないよ」リーダーは顔の前で手を振った。「それをプレゼントしたのは、私の都合だからね」
意味が分からず黙っていると「まあ座ったらどうだ。コーヒーでも飲みながら話そう」と彼が立ち上がった。長い話になるかもしれないから覚悟しろ、という意味らしい。俺としてはさっさと帰りたいから座らなかったのだが、拒否はできなかった。ただし、コーヒーはもともと苦手なので丁重にお断りした。
「そんなに構えなくてもいい。別に取って食おうってんじゃないんだから」本人は冗談のつもりだろうが、全然そうは聞こえなかった。
「俺に何か交換条件を出すんでしょう? あなたの魂胆は分かってます。俺も無駄は嫌いですから」
「つれないね」言葉は軽いが、表情は真剣だ。「本当に、難しいことを頼もうとは思っていない。ただ、そのパソコンを使って小説を書いてほしいだけだ」
大方俺の予想通りだった。「それで? 俺に何かデメリットがあるんですよね?」
「デメリットと考えるかどうかを」彼は手を握ってきた。「君に判断してほしい。この空間で有益に使えるかどうかを、君に確かめてほしいんだ」
釈然としないところは多い。だがそれを言い出すとキリがない。渋々ではあるが、従うことにした。
「じゃあ、俺は失礼します。何かあれば、報告しに来ればいいんですよね?」
「ああ。小説、頑張ってくれ。私も応援している」そこで彼は、「ああ!」とわざとらしいくらいの大声を出した。
「美月から伝言を預かっていたんだ。『日記みたいな小説は好きじゃないから、奇抜な設定をひとつ加えてほしい』とね。私もそれには同感だ。君たちは順調に進みすぎているからな。キャラクターの名前まで君たちと同じ。完全なるノンフィクションでは、盛り上がらない」
最後の方はほとんどあんたのやっかみじゃないか、という台詞は飲み込んだ。
そこから数日、一切原稿が進められなくなった。もう告白のシーンまで書いてあり、もう少しで終わらせるつもりだったからだ。
「ここからどうしろってよ」誰もいない教室で思わず愚痴が漏れた。外を眺めると、もう夕陽が沈みかけている。
俺はそこで、ある展開を思いついた。作品を長さは倍くらいになってしまうが、これなら主人公たちへの試練にもなる。
もともとアイディアさえあれば、執筆自体は短時間でできる。意気揚々と原稿を完成させた。これであとは提出するだけ…‥。久しぶりに何の不安もなく帰宅した。
しかしこういう時に限って、翌日は何か問題が起こる。そしてそれは今回も例外ではなかった。
変貌
翌朝教室で意識を取り戻した時、美月はそこにいなかった。時計を見るともう8時半になろうとしていた。違和感を感じた。彼女が俺より遅れてくること自体珍しいし、ホームルームに遅刻しかけるということはあり得ないことだった。
もしかしたら、自分の部屋で倒れてたりして……? そんな悪い予感がしたが、一瞬で打ち砕かれた。いや、ある意味予感の上をいく事態が起こっていた。
「チョリーッス! あ、龍一じゃん! バケモノでも見たような顔してるよ。なんかあった?」
そこに現れたのは確かに橋本美月だった。いや、彼女の姿をしたものだった、という表現が適切だろう。姿は明らかに美月のものだが、それ以外は全て違った。口調、目つき、態度に至るまで。まるで別人格が彼女を乗っ取ったかのようだ。その上制服まで、まるで本物のギャルみたく着崩されていた。
目の前の出来事を処理しきれず呆然としていると、先生が入ってきた。「ホームルームを始めます。まずは龍一くん、小説の進み具合はどう?」
彼女はまだ美月の変化に気づかないようだ。俺からしたら椅子に座る姿勢からして明らかに違うのだが、先生は普段からそこまで注意しては見ていないらしい。
まあ、先生だって美月とは長い付き合いだ。言葉を発すればさすがに違和感を感じてくれるはず。脳内で呪文のように言い聞かせて、俺はパソコンを開いた。
「先生すみません。急にお腹の調子が悪くなったので、お手洗い行ってきます!」
もう少しマシな言い訳があったような気もするが、ことは急を要していた。
何を隠そう、俺の小説原稿にはこう書いてあったのだから。
「もしかしたら、自分の部屋で倒れてたりして……? そんな悪い予感がしたが、一瞬で打ち砕かれた。いや、ある意味予感の上をいく事態が起こっていた。
「チョリーッス! あ、龍一じゃん! バケモノでも見たような顔してるよ。なんかあった?」
そこに現れたのは確かに橋本美月だった。いや、彼女の姿をしたものだった、という表現が適切だろう。姿は明らかに美月のものだが、それ以外は全て違った。口調、目つき、態度に至るまで。まるで別人格が彼女を乗っ取ったかのようだ。その上制服まで、まるで本物のギャルみたく気崩されていた。」
にわかには信じられず、何度も見直した。だが、間違いない。原稿に書いた内容が、現実になっている。
「何が起こってる?」
ここは異空間だ。どんなにイカれた現象でも「空間の作用」やら「超能力」やらで簡単に説明ができてしまう。もうそうやって納得する他なかった。
教室に戻っても、やはり美月はいつもと違った。「数学なんて生きていくのに必要ないじゃーん!」と相変わらずのハイテンションで騒いでいた。まだホームルームの最中だったはずだが、中断せざるを得ないらしい。それ以前に、普段は温厚なはずの田口先生が肩を震わせていた。「先生!」
俺が大きい声を出したので、彼女は少し冷静さを取り戻したように見えた。「龍一くん、これはどういうことなの?」
「すみません。俺にも分かりません。見当はついているんですが、確信がない。先生も美月のこんな姿を見るのは初めてですか?」この問いに、彼女は強く頷いた。
「先生に心当たりがないのなら、原因はほぼ確定したようなものです。確かめてくるので、1時間目は何とかしてください」
我ながら無茶苦茶な要求である。しかし先生の方も、俺の本気を分かってくれたらしい。「行ってらっしゃい」とだけ言ってくれた。
リーダーは俺の姿を認めると、「遅かったね」とだけ言った。だがその表情には笑みが浮かんでいた。
「いい加減、誰にも知らせずに壮大な実験をするのはやめましょうよ。先生もパニックになってます」
「だろうね。そしてその原因は、君にもある」
「俺の書いた小説通りの現象が起きているんだから、まあそうでしょうね」もう怒る気にもなれない。「それで、元に戻すにはどうすれば?」
「それはもちろん」リーダーは俺のパソコンを差した。「君の小説の中で、彼女を元に戻せばいい。ただし、物語を破綻させないように」
頭を抱えるしかなかった。美月を多重人格者に仕立てたまではいいが、その理由も元に戻るプロセスも一切準備していなかったからだ。いわゆる見切り発車である。
「もし、今の原稿を破棄するとどうなります?」
「これはまだ実験だから断定はできないが」彼は声のトーンを落とした。「最悪の場合、彼女が廃人になってしまう可能性もゼロじゃない」
俺はリーダーを買い被っていたようだ。これではもうマッドサイエンティストである。実験のためなら美月の人生を犠牲にしてもいい、というように俺には聞こえた。
「そんな危険なものをどうして俺なんかに? それに、どうして美月まで巻き込むんだよ!」
「こうでもしないと、君は作品を完成させないからだ。夢を語るのだけ一人前でも、行動が伴わないんじゃ意味がない。退路を断つという意味で、彼女を利用させてもらった。君が今一番大切に思っているのは彼女だろう? 最低限小説として読めるストーリーを完成させない限り、君が好きだった橋本美月は戻ってこない。これ以上ないプレッシャーだろ?」
無性に腹が立った。パソコンを投げつけてやろうとしたが、美月の命がかかっていると思い直し、手近にあった本をリーダーに投げつけた。彼は拍手をした。
「予想通りの反応だ!」
これ以上この部屋にいると理性を保てなくなるのは明らかだった。もう目上の人間への礼儀などどうでもよくなっていた。
その日はそのまま、授業をバックれた。自慢じゃないがこの日まで無遅刻無欠席の(経歴だけは)優秀な生徒だった。そんな経歴にまで傷がついた。あんな人でなしのキザ野郎のせいだ。
事情を説明すると、先生は渋々ながら俺の早退を認めてくれた。
「非行には違いないから大っぴらに認めるわけにはいかないんだけど、龍一くんが戻ってきたところでこのままじゃ通常授業は不可能だから」
どうやら美月の精神は、急な人格の変化に順応出来なかったらしい。受け答えが満足に出来ていないのだ。何を聞いてもギャルのテンションで返ってくる。それだけならまだマシだが、返事がすべて「チョリーッス」なのだ。確かにこれでは授業にならない。おそらくこれも俺の書いた小説のせいだと思うと、吐き気がした。一刻も早く美月を元に戻さなければならない。そう思った。だから先生にある提案をした。
「缶詰め執筆、やらせてもらっていいですか?」
缶詰め
許可を得て、今は使われていない教室に入る。この教室の鍵を持つのは俺と先生だけ。先生は言わば担当編集者のような意味合いだ。
その部屋はだだっ広いところで、執筆に必要な資料を集めても大丈夫な場所だった。人格の急な変化に理屈をつけるため、出来るだけ多くその分野の資料に目を通す必要があった。
俺としてはとりあえず、SF小説に舵を切るつもりだった。SFなら何が起こってもいいと考えたからだ。しかしその現象にも、最終的にはもっともらしい理屈をつける必要はある。そこで資料集めというわけだ。
見切り発車も甚だしいが、筆を進めないことには事態も進展しない。俺は次のように加筆した。
「美月の衝撃的な変貌から一夜が明けた。これからはギャルと付き合う覚悟を決めるべきかもしれない…‥。俺が好きだったのは純粋で、愛の言葉すら緊張してうまく言えない橋本美月だったのに。彼女が元の人格に戻ることを願わずにはいられなかった。
どうやら、俺の思いは通じたらしかった。美月は一昨日までと同じように、「龍一、おはよう」と声をかけてきたのだ。少し体調が悪そうなので理由を尋ねると「寝不足」ということだった。」
こんなふうに書いておけば、明日には一応彼女は元の人格を取り戻せる。ここから先は頭を回さなければいけないところだ。
おぼろげな記憶だが、昔観たアニメに似たような設定のものがあった気がした。確かコンプレックスが強すぎるキャラクターがたくさん出てきて、そのコンプレックスを克服するために様々な超常現象を引き起こす、というような内容だった。
……もしかしたら俺も、美月に対してコンプレックスを抱いているのか?
自覚こそないが、否定はできなかった。彼女は俺よりも明らかにルックスが良く、頭も良かった。俺が勝っている部分といえば、読書量くらいしかない。俺としてはそれで構わないと思っていたのだが、こんなふうに考えること自体がコンプレックスの証明のようにも思えた。
これは長い戦いになりそうだな。
普段なら「面倒くさい」と思うところだが、こんな俺でもやっぱり恋人のことは大切だった。打開策を考えているうちに真っ暗になっていて、ドアを開けると手紙とおにぎりが置いてあった。手紙は田口先生の字だ。
『あんまり無理はしないでね。と言っても龍一くんのことだから、彼女を救えるまでは頑張るつもりなんでしょう? だったらせめて、食事と睡眠だけはちゃんとしてね。あなたが彼女を心配なように、私だってあなたのことを心配してるってことだけは忘れちゃダメよ?
追伸 おにぎりは私の手作りです。それを食べたら今夜は寝ること。明日の朝起きたら、職員室に来てね』
「寝る」という言葉を目にした瞬間に、急に眠気が襲ってきた。実際、原稿には明日についての記述しかしていない。今日これ以上考えても無駄だということは分かっていたが、どうしても踏ん切りがつかなかった。諦めるようで気分が悪かった。先生に背中を押してもらった気がして、すぐに眠りについた。
思えば、寝るという感覚を味わったのも久しぶりだった。そもそも学校内で一夜を明かすというのがとんでもない異常事態なのだが、そうも言っていられない。
翌朝目覚めると、登校時間の直前だった。やっぱり目覚まし時計がないと早朝といわれる時間には起きられなかった。大分遅くなってしまったが、俺は最低限の身支度をして職員室に向かった。
「おはようございます。すいません遅くなって。もうすぐ今朝のホームルームですよね?」
「龍一くんおはよう」先生は笑顔で応じてくれた。「多少遅くなるのも無理ないよ。昨日寝るのも遅かったんだから。疲れは取れた?」そう言う先生の方が疲れ切っているように見えた。おそらく彼女もあまり寝ていないのだろう。お互い寝不足についてどうこう言える状況じゃないということだ。
「昨日あれから、何か変化はありましたか?」
「特にはないかな」先生はため息をついた。「人格の変化で記憶にも多少の混乱があるみたい。龍一くんのことも覚えてたり忘れてたりするから」
状況は思ったよりよくないようだ。俺は昨日の加筆で、記憶に関することには何も触れていない。それでも記憶が曖昧になるということは、小説に現実を合わせようとした反動、いわゆる副作用のようなものが出たのだ。
「……というわけだと思います。これからは美月の人格をいじらない方がいいのかもしれません。すべては今日の様子を見てからですけど」
「そうだね」彼女は安心したように頬を緩めた。「あの子、多分ずっと不安なのよ。あなたのことを忘れてる時も、急に寂しいって言い出したりしてた。覚えているかどうかは別にして、顔を見せてあげた方がいいと思う」
美月のことが一層心配になると同時に、とても嬉しくなった。恋人が苦しんでいるというのに喜ぶのは不謹慎な気がしたけれど、俺がいないというだけで不安を感じてくれる美月を想うと嬉しくなってしまう。疲れも一気に吹き飛び、しっかりと目も覚めた。
「あ、龍一だ。おはよう。昨日は途中でどこ行ったの? そのまま帰って来ないし。めちゃくちゃ心配したんだからね。こういうことは二度とないように!」
「……ああ、悪かった」反射的に謝罪していた。「というかあなた、昨日のこと覚えてるんだな」
「私のことバカにしてるでしょ?」美月は口を尖らせた。だが直後に真剣な表情で「そう言われると確かに、若干ふわふわしてる部分はあるんだよね。でも龍一が居なくなってそのまま帰って来なかったのは覚えてるよ」と言った。自分でも意味がよく分からないらしい。
「ああ、それならいいんだ」事態を収束させる糸口が見つかったような気がした。確証はないが、時間もない。やってみる価値は十分にあった。
その後、ホームルームを2人で受けた。田口先生は最初、美月が元に戻っていることに多少驚いたようだった。しかしさすがは教師。美月にはそれを気づかせないほど一瞬のことだった。
「昨日から龍一くんには、小説執筆の課題に専念してもらってるの。龍一くんだけじゃ可哀想だから、美月ちゃんにも課題を用意しました。頑張ってね!」
急な課題だというのに、美月は別にどうってことないような反応だった。大体、天は二物を与えずというじゃないか。あれは間違いなく嘘だ。彼女が努力で今の知力を得たのだとしても、努力し続けられることは立派な才能だと俺は思っている。
ホームルームが終わると、俺はまた缶詰め部屋に戻った。先生もついてきてくれたので、今後の見通しを話すことができた。
言葉にして他人に伝えるということはそれなりに効果のある作業だ。頭が整理され、自分の考えに矛盾がないかどうかを客観的に判断できる。そして今回の場合、確実に事態を打開できるという確信が持てた。本来の俺なら絶対に嫌うやり方だが、今は手段についてどうこう言っている場合ではない。
俺は何とか、小説を完成させた。
新人賞
それから約半月後、新人賞を主催する出版社から落選の通知が来た。選考にあたった編集者の意見として、以下のような文章が付けられていた。
『設定や展開に真新しさはないが、それは文章力でカバーできている。小説の文章というものをよく勉強している。しかしラスト数枚でガッカリしたと言わざるを得ない。あの手法は、小説に限らず多くの媒体でタブー視されている。プロットをきちんと制作し、同じミスを繰り返さないようにすれば次回受賞の可能性は高い』
一次選考で落ちているのに随分と持ち上げられたものだ。しかし、俺はこの結果に納得していた。美月が元の人格に戻ったからだ。小説の完成度なんて二の次でよかった。
大変だったのは美月の相手だった。彼女は俺の小説をずっと楽しみにしていたのだ。しかし読み終えた後の第一声は予想通り「全然面白くない」だった。
「このオチ、何よ? 読者をバカにしてるようにしか思えない。それまでずっと面白かったのに、少し龍一のこと見損なった」
散々な言われようである。自分でも分かっていることを、ズブの素人に説教されるほどキツいこともない。
誰のためにこんなオチにしたと思ってんだよ、という言葉が喉元まで出かかっていた。しかしそれは絶対に言えない。そんなことをすれば今度は、パソコンの力ではなく彼女の人格が崩壊する危険性があるからだ。あんな変な状態のことは、忘れてくれていた方が都合もよかった。
「仕方ないんだよ。ちゃんと書くには時間が足りなかったんだ。でも、そんな作品を美月に読ませたのは悪いと思ってる。お詫びになるか分からないけど、今度カラオケ行こうぜ。俺が奢るからさ」
それまでは頬を膨らませていた美月だが、カラオケという言葉に反応したらしい。少し赤くなりながらこう言った。
「カラオケと、龍一プロデュースのデート。それで許してあげる」
承諾はしたものの、予算は低めでお願いしたいと内心では思っていた。
ちなみに、俺がどんなオチをつけたか、この本の読者諸君だけには教えよう。
「美月の人格変化があってから数日が経っていた。今まではずっと別人格だったのに、今日はまたいつもの彼女に戻っている。そこで俺は妙なことに気づいた。
夜寝室に入った記憶はあるのに、朝起きた記憶がない。しかも、美月の人格が変わった日だけだ。そこで一つの仮説を立ててみた。
その夜。俺は美月の警察官姿をイメージしながら眠った。すると次の瞬間、目の前にイメージした通りの姿で彼女が現れた。
あまりにもリアルで今まで気づけなかったが、美月の人格が破綻していたのは俺の夢の中だったのだ。夢の中の出来事に振り回されて、ずっとあたふたしていたのだ。そう考えると実にアホらしくて、ひとりで笑えてきた。
変な妄想をやめると同時に、美月の変化もなくなった。やはりすべては俺が原因だったらしい。俺は妄想の中とはいえ、自分の彼女を着せ替え人形のように扱ってしまった。強い後悔だけが残った、
俺はもう二度と、美月のコスプレを妄想しないと誓った。少し残念な気もするが、バニーガールやメイド服といった今までのやつは、目覚めても鮮明に記憶にあったからだ。
それに俺たちはもうカップルなのだから、コスプレ姿が見たいのなら彼氏の力を使っておねだりすればいい。口では嫌と言っても、きっと美月はコスプレしてくれるはずだ。何より俺は知っている。どんなコスプレをしようと、それが橋本美月でなければ俺には何の意味もないということを。そして彼女が、宇宙一可愛い女の子だということも」
小説の世界では、ラストを夢オチにすることはタブー視されている。何でもありになってしまうからだ。それこそ辻褄が合わなくても、「これは夢だからね」と言われれば筋は通ってしまう。
この方法は確かにタブーだ。しかし禁止事項ではないし、世界観が壊れることも防げる。作家志望の高校生という立場よりも、美月の恋人という立場が勝ったというだけの話だ。
そんなわけで、俺たちの1学期は無事に終了した。多少の傷は負ったかもしれないが、美月と幸せを掴めるならそれでよかった。
……そんな俺の苦労を1ミリも知らないのは美月だけ。夏休みは勇気を出して、海か花火大会でも誘ってみようと思った。それくらいしてもバチは当たらないだろう。