【ドラゴンのエッセイ】デジタルタトゥー
のっけからネガティブなタイトルではあるが、今回はポジティブな話だ。
「デジタルタトゥー」という言葉は「ネットに一度投稿したものは、完全に消すことはほぼ不可能だ。ある意味体に彫るタトゥーよりもタチが悪い」という認識を広めるために誕生したものだ。少なくとも今の俺はそのように認識している。
この「デジタルタトゥー」は、俺がnoteを始めた理由の一つにも絡んでくる。
デジタルタトゥーというのは、いい意味の言葉ではない。しかしその言葉を俺はいいように解釈した。
つまり、一度ネットでアカウントを作って投稿すれば、例えば俺が死んだ後でも「ドラゴン」という存在を誰かに見つけてもらえる可能性があるということだと思った。
そもそも俺が文章を書きたいと思った最初の動機は、いずれ離れ離れにならなければならない先輩や先生方に「接点がなくなっても俺のことを忘れないでほしい。忘れたとしても俺が書いた文章を読んで思い出してほしい」という気持ちだ。
ネットで投稿する行為がタトゥーに例えられるなら、いつか学友や恩師、施設でお世話になったけれど辞めてしまったスタッフさんなどにもいつか見つけてもらえるかもしれない。
こういう動機で文章を書こうと思い立った。もちろん、本を読むことや文章を書くことはずっと大好きだ。優れた小説や漫画を数多く読んで、いよいよ読むだけでは満足できなくなってきたのは中学生の頃だ。その頃からずっと何かしらの文章を書き続けてここまできている。
中学生当時は、有名になれればなんでもよかった。芸能人でも、アスリートでも、とにかく日本の多くの人が自分を認識してくれる職業に憧れていた。その中で一番、情熱を維持できると感じたのが作家だった。
俺は今日に至るまでたくさんの記事を書いてきた。特にエッセイでは俺の個人情報こそ伏せつつも、俺を知っている人が読めば「あ、これアイツが書いたんじゃね?」と分かる程度にはパーソナルにな部分に触れている。未だに昔の友人からの反応こそないが、「デジタルタトゥー」を残すためには充分な量を書いてきたと思う。そして、だからこそこうも思う。「もう昔の友人から見つけてもらうのは無理じゃないか?」と。実は、半年前くらいから思っていた。
けれども俺は、noteを書き続けることを選んだ。「友人から見つけてもらいたい」というある意味不順な動機から始まった「ドラゴン」としての活動だが、今では少ないながらも読者の方がついてくれている。読者がいるということは、俺の文章が求められているということだ。
今までの人生、障がい者であることを理由に健常者から邪魔者扱いされてきた。そんな俺が誰かから求められ、更新を心待ちにされている。ともすれば、俺の文章を読むためにお金を払ってくれる方もいる。
だから最近はnote継続のモチベーションが変わってきた。少なくてもいいから、俺の更新を待っていてくれるフォロワーさんがいるなら続けたい。もちろん俺自身の環境の問題はあるが、現状が続く限りはどんどん文章を書いていこうと思う。無理矢理にではない。「誰かに求められる喜び」を感じられる手段として、あくまで自分のために書いていく。そういう文章が、もしかしたら読んでくれた誰かに勇気を与えられるかもしれないから。