(音楽話)79: 杵屋響泉 “新曲浦島” (2018)
【人生】
杵屋響泉 “新曲浦島” (2018)
歌舞伎、能、狂言などの「演劇」、浪曲、講談、落語などの「演芸」、神楽、白拍子、念仏踊りなどの「舞踊」、そして雅楽、浄瑠璃節、唄などの「音曲(おんぎょく)」…それぞれの世界は非常に深く、時に絡み合い、歴史的・文化的背景を多分に含んでいて重厚、無駄のない流儀と精神を保っている。だから音曲をそのまま「音楽」と読み替えていいのかさえわかりません。それほどの圧縮された世界観と格式の高さ、重みを持っていると思います。
長唄。江戸中期(1700年代初頃)に歌舞伎で流れる伴奏のひとつとして成立。主に江戸で発展し、江戸後期(1800年代)には単独ジャンルとして進化。明治以降はお座敷芸や演奏会という形にも変化しながら、現代も受け継がれています。編成は三味線と唄を基本として、小鼓、大鼓、太鼓、笛などが適宜使われる(囃子。観客に顔を見せて演奏するのが「出囃子」です)。唄は語り口調な「語り物」ではなく歌う形式「唄い物」であり、その世界は物語性のあるものや叙情性あるものなど、多岐に亘ります。
長きに亘る長唄の歴史には3つの祖があります。「杵屋甚五郎」「杵屋六左衛門」「杵屋喜三郎」。そのひとつ「杵屋甚五郎」五代目の一人娘が、今回の主役・杵屋響泉です。
大正3年(1914)東京・築地生まれ。肺が弱く小田原に転居し、幼少で”宵は待ち”を教わるも大正6年(1917)に父が急逝。6歳で正式に芸事に励み始め、母・杵屋栄子の厳しい指導の下稽古に励み、昭和38年(1963)に「響泉」を名乗るに至ります。
(「響泉」は亡父が隠居後に名乗るつもりだった名称で、名乗る前に亡くなった父を想い受け継いだとのこと)
2021年現在、杵屋響泉107歳。今も現役です。
この動画は、富士フイルムが制作したドキュメンタリー。当時104歳だった彼女の演奏会に密着しつつ、年齢を積み重ねてもなお探究心を絶やさずに壮絶な演奏を見せる熱意、その生き様を捉えたもの。演奏曲は”新曲浦島”。近代長唄の名曲の数々を自ら作曲した父・五代目杵屋甚五郎の作品です。
(演奏は4:50頃〜。映像はその抜粋です)
長唄の世界にアドリブはありません。全て譜面通り、もしくは伝承、つまり見様見真似。しかし彼女の紡ぎ出すフレーズは、その一音一音、感情の迸りを感じずにはいられない、豪快でシビれるものばかり。まるでブルース・ギターの泣きのフレーズのようであり、ジャズ・トランペットの独白のようなソロであり、クラシック・ピアノの驚愕する煽りのよう。私はこの動画を観た時、ダイジェストな映像にもかかわらず、呆然としました。超絶カッコいい。
作詞はあの坪内逍遥。浦島太郎の伝説をベースにしたもので、どんな世の中であっても神代の時代から続く波の音はそれを凌駕して打ち鳴らされると、物語の序章を表すものとして作られています。唄うは響泉の次女・六響。母子の息のあったバンマスぶりと勢いに圧倒されます。
響泉が4歳の時亡くなった父。思い出などほぼないはず。しかし彼女は事ある毎に父の名前を出しています。つまり100年強、父の背中を追い続けているーーーそれだけでも気が遠くなりますが、永遠の憧れ、親愛、目標を父に持ち続けてきたからこその境地。そこで発せられる言葉の数々に、私はハッとします。
「三味線で生まれてね、三味線で生きてきて、三味線で死んでいくの、私は」
「やっぱ私の中に父が生きてるのね」
「悔しいこと、悲しいこと、なんか嫌なことがある。そん時私はね、一曲やっちゃうの。そうすると『今まで何をそんなに怒ってたのかしら、しょうがないじゃないか』って諦めができてね、忘れられんの。だから私嫌なことがあっても泣かない、三味線弾いてるの」
もう、何もかも突き抜けている。雲ひとつない青空、波紋ひとつない水面。澱みも歪みもない。
私は、このようにカッコよく歳を重ねていけるのでしょうか…?響泉の全身全霊を聴いて、今日も震えながら考えています。
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