(音楽話) 02: 柴田淳 "月光浴" (2011)
【儚い想い】
柴田淳 “月光浴” (2011)
細くて、ミステリアスで、危うくて、今にも消えてしまいそうーそれが今から約20年前の、柴田淳の容姿と歌声に初めて遭遇した時の第一印象でした。そして、ごく自然に、ある言葉を連想しました。それは「不幸」。「不幸という言葉が似合うシンガー」だと思ったのです、大変失礼ながらも。
鬼束ちひろの時もそうでしたが、負のオーラ、悲しみや寂しさや憎しみや恨みを、声の奥底に、表情のそこかしこに感じ、歌を聴きながら切なくなって不安感に苛まれる経験というのは、そんなにあるものではない。しかも、鬼束には「憎悪」を一番強く感じたのですが、柴田からは「諦念」を一番強く感じました。そして直感的に「(心が健全でない時は)聴いてはいけない音楽」と思いました。聴いたら心の闇に飲み込まれて自分が消してしまいたくなる、と。つまりそれ以降、私は柴田淳の楽曲をほぼ避けて生きてきました。
そこに最近、変化が生まれました。とどのつまり、「柴田淳の声からポジティヴなエネルギーを感じることができなかった」と感じていた私の心は上から目線、柴田を下に見ての感想だと気づきました。酷い、我ながら虫唾が走ります。しかし、昨今すっかり心身薄弱で壊れたことで、そんな立脚点は消えて無くなり、音楽をフラットに聴くことができるようになりました。壊れることで、自分を棚に上げてマウント取るような姿勢が消え去った、という…なんとも情けない話です。
この曲は元々2002年発表のシングルですが、このライヴ映像が2011年であることに意味があります。そうです、東日本大震災ーあの出来事によって、この歌はその意味合いを全く変えてしまいました。それまでは恋愛の終わり、別れの歌であったものが、「愛する者との永遠の離れ(わかれ)」をも含む歌になってしまった。
途轍もなく悲しく、切なく心を締めつけるほど、儚い歌が透き通ってあなたに語りかけてきます。演奏のアレンジは美しく、余分な演出を排除して歌に寄り添い、我々を悲しみへ誘う。柴田の歌唱はまるで祈るよう。行ってしまう「あなた」に向けて、せめて僅かでも繋がっていられるように。それは、祈りの中に潜む微かな希望。この歌にある儚い希望は、誰の胸にも突き刺さると思います。
秋の朧げな月夜の灯火に。是非。
(紹介する全ての音楽の著作権等は制作者にあります。本note掲載についてはあくまで個人の楽しむ範囲のものであって、それらの権利を侵害することを意図していません)
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