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【アーカイヴ】第136回/気が付くと、河村尚子の追っかけを7年半もやっていた…[村井裕弥]
先月バッティストーニ指揮《イリス》を取り上げたばかりだというのに、生演奏ネタが続く。
10月30日(日)、杉並公会堂で河村尚子ピアノリサイタルを聴いた。河村尚子は09年3月『夜想(ノットゥルノ)~ショパンの世界』というSACDでメジャーデビューしたから、「ショパン弾き」というイメージが強いが、まめに生演奏を追っかけていると、ショパンを弾いている頻度が、飛び抜けて高いわけではないことに気が付く。
バッハも弾くし、ハイドンも弾くし、モーツァルトも弾く。ベートーヴェン、シューマン、ブラームスへのリスペクトもかなりのものだ。ショスタコーヴィチの協奏曲を聴いたこともあったな(2010年6月26日・東京オペラシティ)。
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意外に思われる方もいらっしゃろうが、リストがピアノ編曲したオペラや歌曲も、かなりの頻度で弾いている(個人的には、超絶技巧練習曲の全曲録音なども、ぜひ若いうちに完成させてほしいと願っている。あと《巡礼の年》なども。ついでに言わせてもらえるなら、リストがピアノ編曲したベートーヴェンの交響曲全集なども、ぜひ録音していただきたい)。
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チャイコフスキー、ラフマニノフ、プロコフィエフあたりを聴くことも多い。このあたりは、師匠であるウラジミール・クライネフの影響? 残念ながら、クライネフご本人によるロシアものを聴いたことはないが、おそらく「ただのモノマネでないこと」は容易に推察される。河村尚子は、いつもよい意味で聴き手を裏切ってくれるのだ!
そうこうしていると今度は、フランスの室内楽(プーランクなど)を若手奏者たちと演奏したりもしている(2015年11月15日所沢、17日大手町など。いずれもクラリネット奏者セバスチャン・マンツとの相性が極上!)。昔気質の音楽評論家ならきっと、「いろんなジャンルに、思い付きで手を付ける浮気者」とレッテルを貼る?(わが国では、「バッハだけ弾く」「ベートーヴェンしか弾かない」と言った一途者がやけにリスペクトされる。お前ら、ほんまにアホかと思う)。
河村尚子が絡んだ室内楽は、フランスもの以外も何度か聴いているが、いわゆる「1+1が3になるタイプの演奏」。周囲の人たちに、この上ないカツを入れるツワモノなのだ。個人攻撃は好きでないから、どこのどなたとは明かさぬが、彼女抜きでのアンサンブルがとんでもなく凡庸であった弦楽奏者たちに河村のピアノを加えると、駄馬に適度なムチを与えたかのような熱演を披露した(!!)などという奇跡も体験している。
そんな河村尚子が、ぐるりと回ってきて、ショパンに再び対峙したのが10月30日(日)のリサイタルだ。弾いたのは、
○ 3つのマズルカ
○ 幻想即興曲
○ 幻想ポロネーズ
(休憩をはさんで)
○ 24の前奏曲
クラシック・ファンであれば知らぬことのない有名曲揃い。しかし、メジャーデビューSACD『夜想(ノットゥルノ)~ショパンの世界』とダブる曲は1つとしてない。この選曲を「わたしは、あの頃の私とは違うのよ宣言」と解釈するのはうがちすぎであろうか!?
杉並公会堂に駈け付けたのは、「長年クラシック音楽に親しんできた」という雰囲気の女性グループかシニア世代のご夫婦が多数派であったと記憶する。「わたし、いまピアノを習っているの。将来はピアニストになるの」といった雰囲気のお子様方、やや少なめ(足利ではかなりいたというのに)。
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ああ、そういえばこのホールで、大友直人指揮日本フィルをバックに、ラフマニノフ:ピアノ協奏曲第2番を弾いたこともあった(2012年11月17日。あれからもう4年もたつのか)。おそらくあの公演にしびれた音楽ファンが、今回も詰めかけているのであろう(ちなみに、河村は最近、第2番でなく第3番を弾くようになった。6月28日サントリーホール)。河村自身がマイクを握って語っていたが、この杉並公会堂における公演は、杉並区民のリピーターが極めて多いのだ。
余談にスペースを割きすぎてしまったかな。09年頃、生で聴いた河村のショパンに比べ、今回のショパンは幾分硬派で、「安易な情には流されないわよ」という気概のようなものを感じた。一音一音が重く(重苦しいという意味ではない)、音楽としての構築力が格段に強固。いわば、甘くないショパンだ。以前驚かされたペダルわざの高度さ(複雑さ)も、意図的に抑えられているかのように感じられた。
アンコールは2曲。
○ ワルツ作品64の2
○ ワルツ作品64の1《子犬》
つくば市ノバホールであったか、ほかの北関東であったかは忘れたが、「どうしてこの子は、聴衆が知らないような曲ばかりアンコールで弾くのかしら」とイラ付いているご婦人のお顔を思い出した。
もちろん河村は気取ったり、自分本位の世界を構築するために「皆が知らない曲」を弾く軽薄者ではない。そのとき自分が弾きたい曲を弾くのだ。そのとき自分が訴えたいメッセージを伝えるために、そのアンコール曲を選ぶのだ!
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参考のため、2009年9月28日紀尾井ホールにおけるリサイタルのアンコール曲をのせておく。
○ ドビュッシー:ハイドンへのオマージュ
○ シューマン:ロマンス作品28-2
○ モーツァルト:ピアノ・ソナタ第18番より第3楽章
○ ショパン:エチュード作品10-8
○ シューベルト:ピアノ・ソナタ第20番D.959より第3楽章
当時まだかくしゃくとしていらした吉田秀和氏が、「アンコールに、モーツァルトのソナタを弾く若手ピアニストが現れた」と驚いていらしたことなどが思い出される(うろ覚えなので、細部のニュアンスが違っていたら、ごめんなさい。吉田氏は、そのあとも何度か河村のリサイタルでお見かけしたが、ついに声をかけることができなかった…)。
あくまで「そう見えた」という話なのだけれど、河村はアンコールを弾くのがあまり好きではないように見える。いや何、弾く労力を惜しんでいるのではない。そこまでのプログラムを真剣に、身を削ぐような思いで弾き、燃え尽きたあとに「私はいったい何をすればいいの」そんな印象をいつも受ける。確か2度あったと記憶するが、「もう弾けません」という意思表示に、ピアノのふたを閉めたこともあった。そんなことをした音楽家は、ほかに最晩年のクリスタ・ルートヴィヒ(メゾソプラノ歌手)くらいしか思い付かないのだけれど、それがちっともえらそうに見えないあたりが、彼女の人徳なのだろうなと思う。
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ドイツに居を構え、時折来日(帰日?)する彼女のことだから、年中彼女の生を聴けるわけではない。しかし、2017年1月にはまた来日してくれるようだから、とりあえず1月13日ヤマハホールのフライヤーをここに貼り付けておこう。
「俺は生演奏なんか興味がない。再生音楽だけがすべてだ」という方もいらっしゃろうが、「河村尚子の生を一度聴くと、音楽観、オーディオ観が変わるかも」と提言したい。7年半以上も追っかけをやっている筆者がいうのだから、たぶん間違いない!
このあと、アントネッロ「エソポのハブラス」(11月3日・東京文化会館)、リッカルド・ムーティ指揮ウィーン国立歌劇場《フィガロの結婚》(11月16日・神奈川県民ホール)についても書く気でいたが、話が混濁してピンボケになりそうなので、またの機会とさせていただく。
(2016年11月21日更新) 第135回に戻る 第137回に進む
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音楽之友社「ステレオ」、共同通信社「AUDIO BASIC」、音元出版「オーディオアクセサリー」で、ホンネを書きまくるオーディオ評論家。各種オーディオ・イベントでは講演も行っています。著書『これだ!オーディオ術』(青弓社)。