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白いピアノよ
その白いピアノは、父の入院している病院のロビーに置かれていた。
父は8月下旬に脳出血で倒れ、近くの病院からリハビリテーション専門のこの病院に転移して来たのである。父に付き添って病院のロビーに入り、まず目に飛び込んできたのが、この白いピアノであった。
病院にピアノがあるのは珍しいことではない。時々ピアニストが院内コンサートを開いているのはよくある話だが、何しろ今はコロナ禍である。この白いピアノも、蓋の前に椅子がずらっと置かれていて、いかにも弾くのはNGのようだった。
入院手続きをしながら職員にピアノのことを尋ねてみると、やはり「今はコロナで」と言う。
♫
ロビーにある白いピアノを見詰めていると過去のことがよみがえった。
初めて弾いたのは幼稚園に入る前だったか。母曰く、当時は習い事を子供にさせるのが流行っていて、最初オルガン教室へ、そこでピアノ教師に出会い、彼女の勧めでピアノを始めた、らしい。
父は大学の教員だったので、住んでいた狭い大学アパートの一室にアップライトピアノ、父は薄給だっただろうに無理をして、とは、大人になってから、やっとわかったことである。
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数日に1回、病院へ荷物を届けに行く。父からのリクエスト物だったり、看護師から要請された補充品だったり、その日はオムツと尿とりパッドを持参した。
夕方、病院は閑散としていた。
受付で要件を伝えると、「看護師が降りてくるまで少しお待ちください」とのこと。ロビーにあるピアノの前に行くと、「ピアノ演奏は午前10時から午後5時まで」と小さく案内が出ていた。
あれ?
ピアノ、弾けるようになったんだ・・・
♫
「弾いてもいいんでしょうか?」と受付の女性に尋ねた。
「え? 弾けるんですか?」
驚いている間に、前の椅子を横に退け、ささっと蓋を開け、ポロポロと弾いた。秋にちなんでシャンソンの「枯葉」、そして中島みゆきの「時代」。
終わる少し前、看護師が父のいるフロアーから降りてきたようで、後ろを見たら、受付の女性と一緒に並んで立っていた。
♫
かつてピアノを僕に勧めた教師は母に「この子は才能があるから」と言ったらしい。
その証拠を見せたかったのかどうかはわからないが、教師は厳しいレッスンを僕に課した。結果、小学一年生で県のコンクールで優勝したのだが、その瞬間を見たのは父だけ、母は妹の出産で病院だった。
父はコンクールの写真をたくさん撮っていた。
本番のときはもちろん、授賞式、おまけに優勝カップと賞状を僕に持たせて、母の入院している病院へ行く途中の道で撮ったのは、今でもよく覚えている。
♫
「あ、お待たせしました!」
「時代」を適当に切り上げ、ピアノの蓋を閉め椅子を元通りにした。二人はまたも驚いて近づいてきて、「BGMが流れているのかと思いました」と看護師、どうやらBGMと勘違いしたらしい。「どうして弾けるんですか?」と受付の女性。
「いえいえ、お耳汚しで、失礼しました」と笑う。
家に着いてしばらくしたらスマホが鳴った。父からだった。
「お父さん、どうしました?」
「今、看護師から聞いたのだけれど、1階ロビーのピアノ、弾いたんだって?」
あれ、早速報告したのか・・・
「ええ、ちょっと時間があって誰もいなかったので」
「そうか。安心したよ」
♫
その時は「安心」という意味がよくわからなかった。脳の病気で少しおかしくなったのかとも思った。何が安心なんだろう。
考えているうちに、コンクールのことを思い出した。そうだった、あの時の何枚も写真を撮ってくれた父・・・
身体が不自由になっても息子を心配している。
父も母もピアノが弾けない。その息子がコンクールで優勝したのだから、さぞ嬉しかっただろうし、将来を期待しただろう。けれど、その道に行かず逸れた。
♫
父が退院するまで、時間を作って、ここの白いピアノを弾こう。白いピアノだから、「白い花の咲く頃」、「白いブランコ」、「白い恋人達」なんか、どうだろう?
今は秋、冬になったら雪の曲も似合うかもしれない。
だが、冬になってこの白いピアノの前にすわって、冬の曲の弾ける前に父の退院を願うのだった。「白いピアノよ、さようなら」と。