「鬼滅の刃」から読み解く宇宙の真理。
実は前々から、漫画を題材にして宇宙の真理を解説というか語っていくことがしたくて、心のネタ帳で温めていたのですが、少しずつでも書いてみようかと思いますのでお付き合いください。
今回の題材となる作品は「鬼滅の刃」。人気絶頂過ぎて取り上げていいのかちょっと迷ったけど、やっぱり取り上げます。今回じっくりと読みたい部分はコミックスでいうと20巻〜21巻。上弦の壱の鬼・黒死牟と継国縁壱の物語です。第176話「侍」から黒死牟の走馬灯シーンが始まり、彼が縁壱をどのように思っていたのかが明かされました。
黒死牟ーー人間だった頃の厳勝は、双子の弟である縁壱の剣客の才能に憧れ、嫉妬し、「彼のようになりたい」と願い、縁壱と同じ道を歩もうとします。しかし、同じようになろうとすればするほど、自分との才能の違いや理解できない縁壱の考え方に触れ、苦しみます。
そして自分を構成していたさまざまな要素、妻子や家、仲間、そして人間であることを捨て、鬼になる道を選びます。
この無惨から鬼に勧誘されるシーン。とても興味深いですね。厳勝は無惨に「鬼になれば無限の時を生きられる」「お前の夢は叶う」と勧誘されて自らすすんで鬼になります。上弦の参・猗窩座の時もそうでしたが、人が鬼になる時というのは、その人が自分自身を見失った時である場合が多いようです。
猗窩座の時は恋雪と師匠を殺され、生きる希望を見失い、怒りにまかせて隣の道場の人間を皆殺しにした後に無惨に出会い、鬼にされます。この時の猗窩座は自分にとっての居場所であり大切な存在だった恋雪と師匠を失い、文字通り茫然自失の状態だったわけです。彼の己の怒りに任せて暴走する性質が、無惨にとっては鬼になる素質があると踏んだのでしょう。
「鬼滅の刃」に登場する鬼は、もともと鬼だったのではなく、無惨含め全員もとは人間です。人間の最も醜い側面、すなわち自分の自我的欲求に囚われ、執着し、そこから抜け出すことが出来ない状態に陥った者が「鬼」として登場している。つまり、誰しも鬼になる可能性があるわけです。
無惨は「嫌いなものは変化」と言っていますが、そうして進化に抗い続ける道を選んだ者が「鬼」たちなのです。
だからどちらかというと、鬼の方がある意味では人間(ヒューマン)臭いとも言えます。その最たるものが無惨です。「死にたくない」……かつて病に侵されていた自分を受け入れることが出来ず、「寿命」や「死」を恐れ忌み嫌い、逃げ続け、抗い続ける。その結果生まれたのが無惨です。「死」を恐れる。これほどヒューマン的な原理で行動するボスキャラは未だかつていなかったでしょう。彼には「死に抗う」以外の目的はないのです。ただ「生きる」ことだけを求め続ける生物です。崇高な理想も信念も目的もありません。ただ、自分が生存するために、そしてそれを少しでも長引かせるために同族を作りました。「死にたくない」ただそれだけのために生き続ける。無惨の「生」はずっと死に抵抗しているだけであり、何の実りも創造もありません。執着の塊です。「暴力的な生命力」「生き汚い」と作中で形容されていますが、これほど何の矜持もない悪役も珍しいですよね。
このように、無惨は「死」に抵抗し続ける人間の醜さが現れた鬼でした。では、話を黒死牟に戻しましょう。黒死牟のテーマは「劣等感」ですね。彼は自分自身を受け入れることが出来なかったのです。縁壱に憧れて、縁壱になりたかったと語っている黒死牟ですが、これは結局のところ人と自分を比較し続け、自己を否定し続け、自分自身を一度も自分で認めてこなかったということでもあります。双子であったとしても縁壱と自分は違う生き物であること、才能も見えるものも感じるものも、何もかも違う存在だということ、それに嫉妬をするばかりで結局受け入れられなかった。それは「憧れ」といえば聞こえはいいですが、自分自身を一度も正視してこなかったということでもあります。
縁壱に憧れ、縁壱のようになりたいと願って進む道は、他人(縁壱)と比較し、自己を否定し続ける道です。「自分は劣った存在だ」という劣等感や嫉妬に苛まれ、縁壱とは一番近い存在だったにも関わらず、まったく違う最も遠い次元に居たのです。21巻には縁壱側の回想シーンがありますが、縁壱の話にはほとんど厳勝は出てきません。縁壱はきちんと自分を主体に人生を生きていたのに対し、厳勝の人生の主体は縁壱でした。自分の人生の中心に他人を据えてしまった。他人に成り代わろうとした。そして自己を否定し自己を構成していた全てを捨ててしまい、鬼になりました。それでも結局彼は縁壱にはなれません。当たり前ですが、厳勝と縁壱は別の存在だから。
縁壱のいう「道を極めた者が辿り着く場所は同じ」というのは、自分自身で在り続ける道のこと。自分自身を受け入れ、その上ですべきことをし、自分を生きる道です。縁壱はそれぞれの人に合わせて呼吸法を変えて指導していたとの描写がありましたが、それはそれぞれが自分自身の力を最大限発揮出来るように指導していたということです。
厳勝は自分自身になるのではなく、自分自身を捨ててしまいました。黒死牟が選んだ道は、言うなれば縁壱の指し示しているものとは逆方向でした。彼はそれに気がつかず、何百年も走り続けてしまいました。そして頸を斬られた後に復活した自分の姿を「正視」して初めて、自分の醜さを認めました。「自分を認める」ことから逃げ続けた黒死牟が、初めて自分を見た。そうして自分の醜さを認めた跡、黒死牟は「死」というかたちで、自分以外の誰かになろうとすることから解放されたのです。
無限の時を生きる道は、終わらない囚われの中でもがき続ける道でした。もし厳勝が、自身の能力を受け入れ、体得した「月の呼吸」を受け入れ、自分の寿命を受け入れ、生を全うしていたら……その瞬間からきっと彼は幸福に生きられたのではないでしょうか。たとえ短い時間であったとしても。それは、黒死牟戦の中で戦死した時透無一郎の走馬灯の中でも描かれています。
僕は、幸せになる為に生まれてきたんだ
兄さんもそうでしょ?幸せじゃなかった?幸せな瞬間が一度もなかった?
(中略)
僕は楽しかった また笑顔になれた
幸せだと思う瞬間が数え切れない程あったよ
それでも駄目なの?
僕は何からも逃げなかったし 目を逸らさなかったんだ
仲間の為に命をかけたこと 後悔なんてしない
こうして読み解いていくと「鬼滅の刃」は本当におもしろいです。人間の生き様のあらゆるコントラストが描かれていて、取り上げたい題材ばかり。特にこうして読み返すと、自我的欲求にまみれていればいるほど、強い鬼になるのではないかと思います。鬼としての力が強い鬼ほど、囚われているものが大きく、拗らせている度も高いように思います。笑
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