誰が誰を好きになってもいいじゃないか、これだけのことがどうして難しいんだろう。
さて、秋の夜長に何を書こうか。
拙作zine「路上占い師が路上から見ている世界」がお陰様で好調だ。書店での委託販売も初めて、少しづつだけど販路も確保中。タイトルのインパクトで購入していただける部分も大きいと思うが、ありがたいことだ。多分、人の知らない世界を垣間見ているような気がするのだろう。続きというか、シリーズ化して書こうかと思う。
次に書くとしたら恋愛の話だろうか。恋愛というか、パートナーシップというか、そのへんのことを書きたい。今年は割とパートナーについて考えることが多かった。異性のパートナーって話で言うと、私はしばらく特定の相手はいないんだけど、今後もし付き合うなら彼氏が複数人いてもいいんじゃないかと思ってる。オープンマリッジのようなことがしてみたい。誰かに過度に依存せず、自立したままで関係を作っていきたい。そう考えた時、「付き合う」という約束事の閉塞感に、息がつまる。互いのことを大事に思うことと、互いを縛り付け合うことの矛盾に苦しむことをもう終わりにしたい。
そもそもパートナーは異性じゃないといけないのか?同性でもいいのでは?というか、相手の性別をあんまり重要視していないのだ。男性だから好きとか、女性だから好きとか、そういう感覚が自分にはほとんどない。男でも女でも関係なく友達だし、男だからとか女だからとか関係なく、その人の存在が好き。そういう感じ。男とか女とか関係なく好きな人は好き、苦手な人は苦手。そういう感じ。
そういう目で見ていると、世の中にはなんと多くのジャッジメントが溢れかえっているのかと些か辟易することがある。男らしい、女らしい、こういう男はいい男、いい女。そういう価値観があることはわかるし、自分もそれに乗っかっていることもあるので、全てを否定はしないけど。でもやっぱり、人と人との関係性の狭さみたいなものを感じる。
誰が誰とどう言う関係になってもいいじゃないか。言葉にすると当たり前のことなのに、それを実現し体現することは人によっては難しい。同性が好きというのは以前よりは言いやすくなってきたと思うけど、それでも偏見が全くないわけではない。逆に、誰かを愛さなくてもいいじゃないか。1人でいることや誰かに恋愛や性的な感情を抱かないことを「孤独」と蔑むのも同時におかしいことだ。誰を愛してもいいし、誰かを愛さなくてもいい。その人それぞれの当たり前を当たり前として受け入れることが、どうして難しいんだろう。
「あなたと私は違うんだね」と、それぞれがそれぞれの違いを受け入れて生きていくことは、難しいことなんだろうか。対等に、仲良く、違ったままで存在することは、可能なんじゃないのか。
優劣はなく、進化の過程のどこにいたとしても、存在としては対等なのだ。そういう意識で居たい。相手もそうであったら嬉しいけど、違ったとしても。そういうスタンスで人と接していきたい。
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