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炬燵、贖宥、猫とパンダ、ナンセンス文学、(父性)

年の瀬に俳句を詠んだので、その話をしようと思います。

年の瀬に書き初め

日本語:

夢色の炬燵 猫ちょっと詰めてね

shio

英語:

A pardon for living:
   pandas are granted
in paternality
(注: 取消線部は紙で隠されている)

shio



炬燵猫

日本語の方の季語は「炬燵猫」。と言いつつフレーズとしては分断されているので、句の切れ目を曖昧にぼやかしています。

「炬燵猫」は当然冬の季語で、寒さに弱い猫が暖かさを求めて彷徨い、見つけた一時のトポス τόποςに丸まっている様子です。

薄目あけ人嫌ひなり炬燵猫

松本たかし

この句を見た時、一種のふてぶてしさと、人間に生かしてもらっているという弱さとが矛盾しながら共存しているのを感じました。

「百万遍こたつ事件」

2018年2月25日、京都大学の入学試験当日に、大学付近の「百万遍」交差点で京大生がこたつを囲んで鍋をつついた「京大百万遍こたつ事件」は、鮮明に記憶に残っています。

―場所を見つけて繫がることで、結局何をどうしたいんですか。

松本:似たようなことやっている人がいろんなところにいてそれが繋がってくれば、困った時になんとかなる確率がどんどん上がってくと思うんですよ。助け合いみたいな感じで。

Happy Energy #33 「素人の乱5号店」店長 松本哉さん

公共空間における「こたつ」や「鍋」は、松本哉に代表されるように以前からリベラルの象徴的アイコンでした。この事件自体にコメントはしませんが、ここでの「こたつ」が一種の「コモンズ」を意味しているのは間違いないと思います。

「よかったら、こちらの方に来て、一緒に鍋を囲みませんか~」

もはや京大も“Fラン”なのか……「京大百万遍コタツ事件」上田雅子が語った一部始終

公共空間を「耕す」

公共空間は放っておくと合目的的な方向に進んでいきます。しかし、舗装された最適化の道にはぺんぺん草も生えなくなってしまいます。
だから、定期的に「耕す」必要があります。「耕す cultivate」 は 「文化 culture」と同語源です。

リソースの完全なる共有化による「コモンズの悲劇」、完全なる私有化による「アンチコモンズの悲劇」に対するアンチテーゼとして、ローカルコミュニティによる共同管理の可能性が模索されています。

例えば、三軒茶屋の茶沢通りでは、昭和40年代に市民による嘆願を経て歩行者天国が実現し、それ以降も市民中心の街づくりが行われています。

大切なのは、何に使われるかわからない状態で土地が存在するのを許容し、そこに入ってくる人々が、有限のリソースを互いに配慮しながら利用していくような状態であると思います。

公共空間の利用方法について話すとき、誰でも納得できるような大義を設定して、それに対してこういう規制や緩和があって、というスタート地点から始まることが多い気がする。でも、私が見てきた事例はだいたい、「自分の暮らしをちょっとだけ楽しくしたい」「そこに他の人も入ってきてくれるとなおよし」くらいのモチベーションで始まっていたりする。目的が何か、どんな法律があるか、というのは二の次で、やっているうちに見えてくるものである。

公共空間を耕す人々 - 公共R不動産研究所

(生きていて)悪かったな!

名詞 pardon
1. 許し。
2. 勘弁すること。
3. 容赦。
4.(ローマ法王による)贖宥。

Wiktionary - pardon

"Pardon me." は "Excuce me." のように「すみません」「ちょっと失礼」という意味で使われます。肩がぶつかった時やこたつに入る時に使えるかもしれません。

ちなみに、"Pardon me for living!" で「悪かったな!」のような意味になります。我々は生きていればそれだけで人に迷惑をかけ続ける存在です。そう言う意味では、社会というのはお互いに「大目に見」合って成立するものかもしれません。

贖宥状

さらにpardonにはカトリックの「贖宥状」という意味があります。というかこちらが語源です。

レオ10世発行の贖宥状(1515年発行)
レオ10世発行の贖宥状(1515年発行)

16世紀のドイツにおいて発行された教皇レオ10世による贖宥状は、贖宥行為の濫用としてルターに批判されましたが(95か条の論題)、当時のルターの批判のポイントは、人間が義とされるのは善行ではなく信仰によってのみであるという点でした。
」と「」は別物であり、伝統的贖宥によれば「教会の」を減じるだけであったはずが、いつの間にか「ありとあらゆるがすべて」許されるということになってしまっていたのです。

本来の贖宥状というのは、「持っていると罰から少しだけ自由になるがそれは本質的ではなく、本来的には告解によって赦しを得なければならないことを忘れてはならない」というものなのでしょう。

55. 贖宥が一ならば、福音は百でもって、説教されねばならないというのが、必ずや教皇の考えである。

— ルター、95ヵ条の論題の55 緒方訳

パンダ

動物園において、イルカは上手くパフォーマンスを行うと餌がもらえます。イルカショーで人を楽しませると言うバリューの対価としてもらっているので、失敗すると少ししかもらえません。

対してパンダは特に何も期待されていません。人間に愛想良く振る舞ってもいいし、振る舞わなくてもいい。周りには餌代という迷惑をかけているが、(本人が)特にバリューを出さなくても存在を許されている。

僕は、人類皆パンダであるべきだと思っています。イルカは「ショーでバリューを出すから」存在を許可されているのに対して、パンダは特に存在に理由を必要としません。存在に理由がある場合、その理由がなければ存在してはいけないことになってしまいます。

例えば、障害者雇用文脈において「なぜ障害者を雇用した方がいいのか」「障害者はどのように役に立つのか」を説明するのはナンセンスだと思っています。にもかかわらず理由が求められるのは、「余裕」がないからです。微視的な経済合理性を追い求めていくと、多様性とは真逆の方向に行くのが最適解だからです。

「父性」に代わる単語

ここでいう「余裕」「あそび」「容赦」のようなものを表す適切な単語を未だ見つけられずにいるのですが、暫定的に「父性」と置いています。多少のことは多めに見るという多角的な余裕のことです。大抵の会社は、障害者一人を雇うコスト程度で潰れるようなものではないはずです。

「父性」は英語で"paternity"で、パトロン patronと同語源です。フッガー家がパトロンとして芸術・文化を支援した一方、教皇レオ10世への多額の債権が前述した「集金手段としての贖宥状」に繋がったことを考えると皮肉なものだと思います。

パターナリズム paternalismという形になるとより暴力的になります。強者による、弱者の意思を問わない介入ということで、いわゆる「過保護」「お節介」になります。

今回僕は英語俳句で"paternality"という表現をしました。"paternity"だと「父親の性質」となってしまい直接的に感じたためです。
「父性」をジェンダーフリーにした単語、誰か考えてください。

ChatGPTによる"paternity"と"paternality"の違いの解説
ChatGPTによる"paternality"の解説

竈猫、ストリートミュージシャン、屋台

「炬燵猫」は元々は「竈猫」で、米を炊き終わって火を落とした竈の灰に丸まっていた様子だったようです。灰が冷め切るまでの限られた時間の間そこにいて、冷めたら移動する。というのを想像するにつけ、僕はストリートミュージシャンのことを考えていました。

新宿南口ではちょこちょこアーティストが路上ライブをやっているのですが、本来あの場所での路上ライブは禁止されています。
実際、警察が来て路上ライブが中止させられることは(当然)多々あるのですが、警察が来て実際に声を掛けられるまでには時差があり、例えば1曲終わるのを待っていてくれたりします。その「余裕」の部分にカルチャーを感じます。

同じようなものとして「屋台」が挙げられます。屋台は定住すると怒られるので移動しながら販売しています。テンポラリーなτόποςを見つけ、根付く前に次の場所に移動する、これも非常に猫的だと感じました。

「ちょっと詰めてね」

屋台村やフリーマーケットでは、隣の人はどんな人なのか、何を売っているのかはあまりわからないまま、土地という限られた資源を共有しています。

日本語俳句の「ちょっと詰めてね」は、炬燵という限られた資源の中で、猫に対して「ちょっと詰めて」もらうことで、自分が炬燵を利用させてもらえることを表現しています。猫は自分のスペースが狭くなってしまうのですが、別に炬燵の利用に支障を来たす程度ではないので、自分の存在を許してくれます。
ここで、「ここまでが自分のスペース」という厳格な境界を引くことはしません。お互いに貧しく余裕がなければ、「なぜこれだけのスペースが必要なのか」という説得を経て線引きを行うのでしょうが、「父性」によって、コミュニケーションを行わずとも、曖昧に共存が成り立っています。そもそも猫は言語が通じないのでコミュニケーションが取れないというのもあります。


Colorless green ideas sleep furiously

という文は、統語論と意味論の境界を象徴しています。
文法的には正しいが意味が通らないことを目的としてChomskyによって作られたこの文は、ナンセンス文学を考える上で重要なことを示唆しています。それは、記述は、何かを意味する必要はないと言うことです。

日本語俳句の「夢色の」の部分はナンセンスを表しています。「色無き緑」にしろ「見えざるピンクのユニコーン」にしろ、人間はオクシモロンを語るときに色を使いがちなようですね。

夢に色はないはずなのに色が見えたとすれば、それは「読者の誕生」の暴力性に他ならないはずです。特にそれが「虹色」に見えたとすれば、さらにその先の、LGBTやSDGsまで見えてくるのは時間の問題でしょう。
性的マイノリティや多様性の文脈における、「『理解できないもの』を『理解できないもの』として『理解してしまう』」ことの暴力性はご存じの通りかと思います。

「転移 transfer」と「翻訳 translate」

実は今回の句の裏テーマとして、「翻訳」を置いていました。

「転移 transfer」転移学習のように、ソースドメインで獲得した知識を別のターゲットドメインに応用するということを指します。その過程ではソースドメインは分析の後に一度モデルという形に「抽象」され、そこからもう一度具体化されなければなりません。濃縮還元オレンジジュースです。

それに対し、「翻訳 translation」は1つのクオリアに対応する2種類の言葉を探すという営みであるため、捨象が発生しません。完全にフレッシュなオレンジジュースです。

翻訳はクオリアに焦点を当てるので、必ずしも同じ表現をする必要はありません。日本語の「胡麻を擂る」は英語では"Apple polisher"になります。ここでの「胡麻」や「林檎」に囚われると本質が消えてしまいます。
もっと言えば、例えば音楽と絵画で翻訳されることもあるでしょう。食とダンス、ビジネスとアカデミアなど、全く違う分野で翻訳が行われることだってあるはずです。

Juxtaposition

日本語俳句における「切れ字」の代わりに英語俳句では「並置 juxtaposition」という技術があります。読者の理解を超えた距離にある2つの概念や描写を並べて置くことで、その2つが共鳴し、行間に世界が生まれます。

今回の「一つの探究を日本語俳句と英語俳句として詠む」という営みは、翻訳行為であると同時にメタ的にJuxtapositionを成しています。二つの句は全く持って直訳ではありません。表面的には別々のことを言っているにも関わらず、並べることで奥にある共通のクオリアが浮かび上がってくるはずです。

今回の俳句で自分が一番伝えたかったテーマは「理解しない(まま、観る)」ということでした。あなたにとって理解できなかろうが他人は存在するし、して良い。だからもっと、純粋経験を大切にしたり、実在そのものを愛していったらいいのでは、という話でした。


普段はあまり自分を出して文を書くことがない(「である調」)のですが、今回は自分の言葉で(それ故に「です・ます調」で)書いてみました。どうでしょう?


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