フィルムノワール特集~シネマヴェーラ渋谷にて~

元々シネマヴェーラの特集にここまで通うことはなかったのだが(山梨住みの自分にとってはかなりハードルの高い)、去年の十二月初めに、キム・ギヨン監督の特集を、別件の用事のついでに見ておこうとヴェーラにて3本ほど鑑賞した。その際に次回の特集がフィルムノワール特集であると知った自分は、年末年始興味の沸く新作もあまりないので、これは多少の無理をしてでも一本でも多くの作品を鑑賞してやろうと思った。そもそも自分はニコラス・レイ監督の『夜の人々』という映画が生涯ベストの一本であるのだが、本作がよく分類されがちなフィルムノワールというジャンルについて、何の見識もなく、そもそも自分は『夜の人々』以外にそのフィルムノワールというジャンルに分類されている映画を見たことあるのかという疑問にすら思っていた。ある種、自分の生涯ベスト級の映画に対する理解と、新たなジャンルを自分の中で開拓する意味でも、この特集は逃せないと考えたのだ。そうはいっても見れる作品は限られており、鑑賞できた本数は11本。この記事では、それぞれの感想を備忘録程度に書き残しておこうと思う。



一本目 『拳銃魔』(1949年・米/ジョセフ・H・ルイス)

子供のころから拳銃に取りつかれた男と女の逃避行。前半でいかに彼が銃に執着しているか、だけではなく、彼の別の人間性も同時に描かれていく。ショーウィンドウを割って盗むまでに銃という生命を奪う凶器に執着していつつ、小鳥や動物の命を奪うことには恐怖を感じる。この人間という生き物の複雑さを示す、彼の幼少期を周りの人々が語る序盤のシークエンスは、その後、ロマンスや運命という力によってモラルを超えていくふたりとの差として効果的に対比し合っている。ダルトン・トランボが当時の別名義で書いた周到なこの脚本は、複雑さからシンプルへの変貌、だからこそ複雑な現実社会から逸脱していく二人を描いていくロジカルな組み立てになっていると思う。ラストの霧に包まれた二人のショットがとにかく美しく破滅的で、このシーンを持ってだけでも傑作と言いたくなるパワーがあった。


2本目 真昼の暴動(1947年・米/ジュールス・ダッシン)

所謂、刑務所脱獄ものの系譜にあたる作品だが、基本的に受刑者、所員関係なく、この刑務所全体に必要のないもの、足手まといになるものが容赦なく切り捨てられていく様が描かれ、ある種の組織から切り捨てられる緊迫を描く作品でもあるように思う。常に主人公たちに付きまとう圧は、いづれあの悪徳看守に殺されるというよりも、組織や仲間たちから、必要ない、仲間ではないとされることの恐怖にも見える。解任される所長も、組織から切り離されたうちの一人なのである。あと、ヒューム・クローニンの顔がディゾルブで窓の枠に重なるショットや、誰でもない女の顔に、それぞれの思い人の顔を重ねている男たち、など顔のモチーフが印象的な映画。それぞれを縛る顔たちが不気味なほどにはめ込まれる。だからこそ、彼らの過去などを映像で見せてしまうのはいらないとは思うし、それらのエピソードの入れ方の規則性のなさにはあまり乗れず。


3本目 ヒッチ・ハイカー(1953年・米/アイダ・ルピノ)

 序盤の、顔の見えない殺人者と被害者、そこから主人公2人の登場に、闇から現れる銃と殺人者の顔までの一連は本当に完ぺき。モノクロの黒が一層生える闇の演出としては極北な気がする。全体的にもテンポは悪くなく進んでいき、基本的な登場人物が中年の男3人のみというのもかえって新鮮。オチの潔さ、意外性もあり、全体的にはとても楽しんだが、やはり話自体には引っ掛かりどころが少なく、眼が冴えるような演出も前述したオープニングと、中盤の、主人公二人が目を開けて寝ている殺人者を巻いて何とか逃げ出そうとするが、という中盤のシークエンスのみ。もう少し異質なものを期待していただけに肩透かしを食らったのは確かで、ちょっと凡庸な感じがしたのが正直なところ。ちなみに先日、BBCで発表された女性監督映画ベストのリストにて、蓮實重彦が今作を一番上に挙げたらしい。


4本目 邪魔者は殺せ(1947年・英/キャロル・リード)

キャロル・リードの作品は『第三の男』しか見たことのない不勉強ものだが、正直長かったというのが真っ先に思い浮かんだ感想。ただ、いい映画だとは思う。まるで群像劇というか、一種わらしべ長者的に話が進んでいく感じと、そこから最終的には、死に際でも女のもとに帰ろうとする男と、彼を探す女の破滅的なロマンスに帰結するのはよかったが。ラストの雪はそこまで映画的に映えることはなく。死にそうによろよろと歩くジェームズ・メイソンは素晴らしい。ビールの泡に人の顔が重なったりなどの、悪夢描写も秀逸だが、正直目を見張る演出はあまりなかった。


5本目 生まれながらの悪女(1950年・米/ニコラス・レイ)

紛れもない階段映画。物語を動かす重要なシークエンスでは常に階段が画面の中心としての存在感を発揮する。もはやこの映画はジョーン・フォンテインではなく、階段が主人公といってもいいくらい。他のニコラス・レイ映画においても、最も視覚的な演出効果を発揮する道具ではあるが、それの究極体としての今作。基本的にはベーシックなカップリング劇で、誰と誰が対話しているか、それらの組み合わせ、会話によってドラマが進んでいく作劇。ぶっちゃけお話はニコラス・レイ作品の中ではそこまで好きなものではなかったが、とにかく映画的でスマートな演出が冴えわたる。ところどころのコミカルなテイストも相まって、かなり見やすくウェルメイドな作品でもあると思う。


6本目 不審者(1951年・米/ジョセフ・ロージー)

とにかくこの映画のタイトルである”不審者”(原題も”The plowler)の視点のような、オープニングが素晴らしく、窓枠に収まる叫ぶ女はまさにキラーショットといえるだろう。かなり歪な構成のストーリーではあるが、前半の主人公とヒロインの人妻が、毎晩の密会(情事のような)を重ねていくたびに高まっていくムードは尋常じゃないものがある。夜の番組でラジオDJをしている夫が帰らない毎晩の夜のみを切り取っていく前半部分の大胆さには舌を巻いた。その後中盤の衝撃的な展開と、まるでこちら側の世界のようではない砂漠への飛躍も含めて、一件の不審者通報から始まったいびつなロマンスは目まぐるしいスピード感で展開していく。信頼できる語り手が不在のまま、とにかく全編を包み込む危うさと歪さのムードが素晴らしかった。因みにこちらもダルトン・トランボによる脚本。


7本目 静かについてこい(1949年・米/リチャード・フライシャー)

恐らくフライシャー的にはその後の『絞殺魔』や『見えない恐怖』、『十番街の殺人』までに通づる殺人鬼ものの系譜。なのだが、明らかな活劇性にあふれていてめっぽう面白い。終盤主人公刑事が待ち伏せをする、判事と呼ばれる殺人鬼の男が住むアパートが、『十番街の殺人』で殺人鬼であるリチャード・アッテンボローが管理していたアパートを思い出させる。が、今作は明らかにその後の展開が活劇性に満ちており、そこでの見る/見られるの反転こそが映画的であると思われる。勿論、あの不気味なマネキンの即物性も忘れられない。誰もいない闇の中、マネキンに人間相手のように話しかける主人公、そこから相棒が呼びに来て二人が出ていき部屋から誰もいなくなると、そのマネキンが動き出し、人間と入れ替わっていたことがわかる、という一連の異様な浮き方と不気味さ。あのシーンが何を示していたのかいまいちピンとこないのも含めて怖い。フライシャー的な生々しい不気味さ、堅物刑事とおてんばな女性記者のコミカルあふれるやり取り、スリリングな追走劇と、この詰め込みっぷりにして60分で収めている鮮やかな手さばきには、本当に頭が下がる。


8本目 ショックプルーフ(1949年・米/ダグラス・サーク)

独身の保護観察官と保護観察中のギャングの女のロマンス。三角関係の危険な恋愛劇から、男女逃避行ものへ。随所にみられる唐突さが印象的。窓から飛び降りる男、急に訪れるハッピーエンドなど。サークの意向にそぐわずスタジオ側が勝手に改変したこのハッピーエンドは、それまでの物語の流れからするとかなり歪だが、不思議と爽快な後味をも残す。全体的にフィルムノワール的なおどろおどろしさ、なまめかしさはあまりなく、空気感としてはカラッとしていて、でもそこがいい。脚本家の一人は映画監督のサミュエル・フラー。その他、作りこまれた美しい美術や、結婚式の車を盗み二人で走り出してしまう間の抜けた気持ちよさなど。


9本目 眠りの館(1948年・米/ダグラス・サーク)

『ショックプルーフ』に続いてダグラス・サーク監督作品。これもまためちゃくちゃ面白かった。謎の夢遊病に苦しむ人妻と、その裏に潜む周りの人々の陰謀を捉えた濃密でノンストップな1時間半。ミステリーと裏切り、ロマンスと詰め放題の内容で、とても正しくサスペンスをしている気がする。懐中電灯や、部屋の電気などの、ライトを点ける、または当てることで真実が見え隠れする映画のようにも思える。階段の使い方や、舞台となる屋敷の構造を一発で分からせる、素晴らしい撮影、美術も。


10本目 D.O.A 都会の牙(1949年・米/ルドルフ・マテ)

ぶっ飛んだストーリーラインに正直ついていくので必死だったが。微量の毒物を盛られ、死を約束された男が、復讐とその理由を探るため、精神的にボロボロになりながら、都会の街を駆けずり回る。タイムリミットサスペンスに復讐劇を掛け合わせた作りで、展開は怒涛の連続。オープニングが時制的には映画の最後につながる構成なのだが、その冒頭、オープニングクレジットの間に、辛抱強く主人公の顔を映さず、彼の背中だけを映すのは感心したというか、この辛抱強さは今の映画にはなかなか見られないものの一つなのではないかと思う。ただ終始にわたる、事の重大さ、シリアスさをそぐ素っ頓狂な演出が気になる。すれ違う女性に主人公が目移りするときの効果音など。


11本目 その女を殺せ(1952年・米/リチャード・フライシャー)

神懸かり的な面白さ。ヒッチコック『バルカン超特急』とはまた違った形の列車サスペンス。劇中のセリフのごとく「列車の景色のように、動いている時にはボヤけ、止まっているとはっきり見えてくる」真実をめぐる、だまし合い、活劇。映画史でも屈指なのではないかと思わせるほどの強度を持ったショットの数々。散らばり、階段下に落ちるアクセサリー、そしてその先にいる暗殺者の足元。或いは、撃たれる女とその手に動かされるレコード、そしてそれを止める殺人者の手など。どこを撮っても映画以外の何物でもない瞬間が収められている。小気味良いギャグの気持ちよさ、テンポの良さも含めて、70分台という尺のベストな使い方。大どんでん返しという言葉が陳腐に感じるほどの、サプライズのさせ方、情報の見せ方のうまさ。窓の使い方も天才的。映画のお手本のような映画。フライシャーベストな気も。


今回計11本フィルムノワールというジャンルに区分される映画を見てみて、そのほとんどにロマンスの要素が少なからず入っていること、基本的に90分前後の尺であることなどの共通点があるが、それぞれの監督による特色や、そもそもの演出技法などの違いから、物語をどう語っていくかの見本のような作品たちであったように思う。個人的には、オットー・プレミンジャーの作品などを見逃してしまったのは残念だった。ヴェーラの特集、普段は中々無理だろうなとは思いつつ、興味のあるものはこのくらいは通ってみたいものだが、初見の、普段なかなか見づらい作品を見れただけでも素直に良かった。あとは、『夜の人々』をどこかの機会で一度はスクリーンで見てみたいということだけである。

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